作品レビュー「samskara (〜『未今』より〜)」執筆:川越良昭
- 2018年1月30日
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執筆者:川越良昭
他の人によって創作された『未今』という実写映像作品とその中で芦谷が担当したアニメーションパートとのコラボレーションということであるが、『未今』が比較的冗長な表現を志向していると思われるのに対して、芦谷が描く(筆書きの節くれだった輪郭を持つ)女は実写パートの登場人物とのつながりや行動の背景も動機もなくただ自らの欲望のままに貪り、やがてその“欲”のために美しき姿を失い最後には醜いドクロのような姿になってしまう。果たしてこの女は何か宗教的な禁忌(タブー)を擬人化したものなのだろうか。
みなが知る商業アニメーションの作画監督も手がける芦谷が近年の旅団作品でこだわっているのは“手書きアニメと実写映像との融合(2013年『JOJO’s Bizarre Carousel』のシノプシスより引用)”であると思われる。そのような意識のもとで作られる芦谷作品は、作品を構成する(撮影素材も含む)すべての要素が一度もとの文脈から切り離され、彼が創る“空中庭園”のような新たな想像世界へと再統合されるような成り立ち方をしている。それは実写(カメラで撮影した素材をおもに使っている)系の作品(2009年『over the Cloud Park』、2012年『among the Golden Mists』)や、あるいは自分が関わった作品を引用した自己言及的なVJ風作品(2014年『「アシノミクス」"Ashinomics”』)にも同じように見受けられる。そこではすべての素材がカラフルに色づけされて、表面的には(カメラで撮影された映像さえも)ただの色彩や形状として手書きアニメや様々な映像エフェクトと等価になっている。いわばその平均的に色づけされた世界で観客はカットごとの意味や文脈を随時組み立てながら前に進むように作品を観ているのではなく、これらの空間を統括する思想や世界観から現われ出たもの(キャラクター)として各カットを理解するだろう。例えば、今までの芦谷作品の中ではメッセージ性の強い2012年『among the Golden Mists』において最後にバベルの塔が象徴的に現れ、その一点がより強くメッセージを感じさせるが、そうであっても作品の中では常に、ある世界観を表す変奏されたイメージ(Golden Mists)が漂っており、そのことで我々には作品の細部よりは統一性に対する芦谷のこだわりを感じる。
そのように考えた後に、今回の『samskara(〜「未今」より〜) initiation-episode from “MIIMA”-』に立ち戻ると、今までの芦谷作品とは違う成り立ち方をしていることに気づく。つまりこれは芦谷だけの作品ではなくて『未今』の鈴木宏侑監督、エンドロールに出てくるアニメーターたち、そして自身の手書きアニメのコラボレーションなのである。であるからこの作品にはたくさんの所有者がいる。これはあたかも芦谷が“手書きアニメと実写映像との融合”という実験を終えた後、これら多くの人々の仕事を統合するようなさらなる上位概念としての“アニメーション空間” の構築を模索しているように見えないだろうか。ただその時に難しいのは今まで芦谷個人の作品制作では可能であった“世界観”や“ルール”“マナー”の管理であろう。みなそれぞれに伝えたいことの強度が違う時にそれらをどのようにまとめて全体的な作品世界として提出するのか、これがここから先の課題であると思われる。


