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作品レビュー「よびごえ」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月31日
  • 読了時間: 4分

更新日:11月7日

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 千葉が描くアニメーション世界は常に過剰に混乱している。そして千葉にとってその不条理ともいえる脱線世界は登場人物に面白いキャラクター付けをするというのではなく、匿名である意味真っ当な彼(彼女)が置かれた“理不尽な状況”を描くことで表されていた。つまり物語を成立させている舞台装置に仕掛けを施していたのである。


 そのように2014年の『土曜日』では様々な制約から身動きがとれない(自由になれない)人々を描きながらも、だからこそ“思念的、無意識的”なレベルでいびつに人々が繋がっているという妄想世界を描いた。ここにはまず物語のベースとして普段私たちを取り巻いている“ディスコミュニケーション”的世界が前提とされている。そのように本来繋がらない筈の私たちを、千葉が用意したスラップスティックな舞台装置で、どんどん物語を脱臼させてゆくところに彼女のシュールでゴチックな絵が伴ってなんとも言えない可笑しみを生んでいた。


 だが千葉の作品は2015年の『愛は草むらの中へ』から、少しずつ変わり始めているように思う。分かりやすいところでは登場人物達それぞれに“声(セリフだけでなくモノローグも含む)”が与えられるようになった。そしてそれはキャラクターの内面を描くことに繋がっている。物語を動かす声が、ある特定のキャラクターに所有されると今までの千葉作品の見所であった大きな舞台転換はしにくくなるし、よって物語の最後にカタストロフィーが起きにくい。だが彼女はこの作風の変化と同時に物語にあるものを忍び込ませることによって舞台を大きく反転させることを可能にしている。それが“他者”という存在だ。


 この“他者”の登場はすでに『土曜日』でも予告されていた。それが最後に現れるバスに轢かれた何者か(ストーリーから推測すると最初に出てきた犬かチョビ髭オヤジだと思われるが)の“黒い影”である。のっぺりして細部を持たないこの黒い影は物語のどこにも属さない、いわば完全な“外部”である。そのように千葉の以後2作の“他者”を追って行くと『愛は草むらの中へ』では主人公によるモノローグが採用されていて、一人語りということはその者以外のすべてが他者になる可能性を持っている。しかしあえて他者を特定すると、この主人公が思いを寄せる相手あるいは最後に皆がする無表情な眼差し(最後にはモノローグの主も同じように眼差し返す)が代表的な他者だと言えるだろう。この“他者”の導入によって今まで唯一の物語(価値観)であった中に、主観と客観という“一方を否定する制度”の使用を解禁したということになる。そして2016年『しあわせシロップタウン』での他者は明らかなように思われる。それはもぞもぞ動き、うらぶれた原っぱに捨てられるあの“黒いモノ”である。


 この“シロップタウン”は同質性が支配する世界である。そこではすべてのコミュニケーションが共感と容認というような甘いシロップで出来ていて、そこから外れた多様な存在(シロップタウンの住人にとっての外部)はすべて黒い物体として現れる。最初のうちその黒い物体は“異物”として扱われしかるべき“捨て場”まで運ばれる(またこの作品ではこのような匿名の負のキャラクターにまで「おーい」という“声”が与えられている)。そのようにしてまで同質性の純度を上げてゆくとどうなるだろうか。今までは些細な差であったものまでが次第に異物の枠の中に入ってしまうだろう。そうやってお互いがお互いを排除してゆくうちに、結局自分たちが排除されるべき少数派になってしまうのである。物語の最後に今まで黒いモノを捨てていた場所にそのものがなくなっているのは自分たちもその“(排除された)黒いモノ”になっているので見えないからと言うことができるだろう。そこではたぶん最後に排除された者も「おーい」と共感できる誰かを呼んでいるに違いない。


 このように千葉は枠組みである舞台を動かさず(かつてのように最後に舞台を大きく動かしてしまうと今まで成立していた世界の否定、例えば夢オチのようなラストになってしまう)、主観と客観(肯定と否定)を作品に導入することで、キャラクターや彼らのつながりを描きつつ(そして彼らの世界は成立させつつ)も作品がドラスティックに場面転換することを可能にしたと言うことができる。このことは今までディスコミュニケーションが前提だった千葉の創作世界で(結果的に分かり合えなくても)コミュニケーションを描くというモチベーションに彼女がシフトしていった結果なのではないだろうか。そのように新たな舞台装置と千葉のキッチュでダークなキャラクターが相まって、彼女の作品世界は今後さらに私たちの日常にアイロニカルなほど似てくるであろう。

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