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作品レビュー「窓のむこう」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 3分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 垣田のカメラで映像は常に二重露光されている。ここと、むこう。初期の作品では“ここ”はおそらく垣田本人に結び付けられていた。そこでは“むこう”を眺める作者の存在が“ここ”として仮構されていた。違う言い方をすれば、そこには垣田の“まなざし”があった。


 例えばこの“まなざし”を、ただのモノや風景、人、生き物などから被写体へと格上げする際の“関係性の係数”だとすれば、撮影を通してお互いを変容させてしまうような大きな係数もあれば、ほぼ零に近いものもあるだろう。垣田のカメラはそのまなざしの存在を匂わせながらも係数は少なく低く保っている。“無関心のちょっと上”そのような映像を撮る作家だったように思う。そして、それらのカットはあらかじめ決まった物語に回収されるわけではなく、まなざされたその一回性(たまたま撮られたあるカット)として、断片的に作品の中を漂っている。


 2014年の『猫の夢』で垣田は、飼い猫のまなざしを撮った。猫のまなざしと言っても実際には撮れるものではないので、何かを見つめる猫と猫によって見つめられただろう風景がカットバックされるというものなのだが、同時に垣田はその作品で眠っている猫や鏡に映る自分の姿も撮っている。彼はこの作品でおそらく“まなざしの係数”には色々な値や計算式があるということを発見したのではないだろうか。低い温度ではあるが、厳密に対象に結びつけられていたいわば唯一の“まなざし”にその強度や複数の所有が存在し、1つの作品でまるでマルチカメラで撮った映像のアングルを変えるように、そのまなざしの位置が変えられるということを。


 そのように寡黙な雰囲気の作品を作ってきた垣田であるが、一転して2015年の『影の時間』(影“の”という所有を示すタイトルになっているのが興味深い)は大変雄弁な作品ではなかっただろうか。そこには今までにはなかった、あるカットの長さを保証するだけのまなざしの強度とでもいうべきものがあったように思う。しかし、そのまなざしが最後まで主題に結びつかないもどかしさを同時に感じたのも事実である。おそらく垣田はこの『影の時間』のラストの3カット(ブラックアウトしたその黒みとその後の手持ちで撮影された2カットの風景)で、今まで作品が持っていたルールのようなものを反転したかったに違いない。だが上手くいっていないように私は思う。そこには『影の時間』という作品における“影的なもの”の描写や説明が不十分であるためだ。


 そして2016年の『窓のむこう』では、今までの純粋なまなざしというような以前の垣田が志向していたような映像に戻っているように思う。ただ以前のように偶然性が生むような、その場限りのまなざしで作品が細切れになるようなことはなく、そこにはある流れがある。その流れを生んだのはもしかしたらここでも登場する飼い猫カットの構成によるものかもしれないし、夜から始まり、昼、夕方、そして最後にまた夜に戻るという時間経過なのかもしれない。だがそのような部分とは別に、例えば最初から数カット目の水滴がついた夜の窓を正面から撮ったカットや、マットの中でもぞもぞする猫のカットに出てくるフリッカー、そして黒みや歩道橋を登る自分の影を撮ったカットなどによって、垣田がまなざしの強さを変えたり、所有を変えてみたりといった操作をしているからだと思う。このような(まなざしの係数を変える)ことが意識的にできるようになるには、実はかなりの経験を必要とする(なぜなら、それは何もないところから“値”を生まないといけないからだ)。だからみんな頭でわかっていても実践できる者は少ない。垣田の『窓のむこう』は一見地味に見える作品であるが、この作品が持つ意味は東京映像旅団の上映活動にとってとても意味が深いだろう。


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