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作品レビュー「アイソレーションのアウトライン(3′)」執筆:川越良昭

  • 2018年11月21日
  • 読了時間: 2分

更新日:2025年11月7日

natsuko kashiwada

アニメーションの “es”

執筆者:川越良昭


西崎 啓介の作品は2007年の「衛生の夏」で初めて観た。


一度観たきりなので、細部についてはほとんど忘れてしまったが、「衛生の夏」の作品体験を改めて言葉にすると「ここには本来不必要で過剰なものが描かれている」ということで間違いはないと思う。作品には“夏の嵐”が描かれているのであるが、物語進行的に「ああもう嵐的表現は充分だな」と私が思ってからも嵐はしばらく続く。あらかじめ決まった物語を機能的に埋めるだけの“嵐”ならば、あれだけの長さは必要ない。ではあの“過剰な嵐”はいったい何の表現だったのか?おそらく西崎 啓介は「衛生の夏」内の“嵐”表現において、なにか物語のフレームとは別の“何か”に触れようとしていたのではないだろうか?


風や雨や木々の葉などがないまぜになり、分別なく描かれている画面を通して、私は何故か嵐に見舞われている少女のこれからの人生や、こんなときに吹き荒れる嵐の理不尽さなどについて思いを馳せたことを覚えている。はたして彼は「衛生の夏」で嵐の細部を描いたのか、それとも“嵐的抽象”を描くことで私たちの中から何か“存在自体から生まれる不安”のようなものを引き出そうとしていたのだろうか?


「アイソレーションのアウトライン(3')」では、ある郊外の交差点を渡る人々がロングのフィックス1カットで描かれている。そこでは気象の変化もないし交通事故も起こらない。ただ何も起こらない空間を監視カメラのように見つめるだけの作品なのだが、次第に(“私は監視カメラではない”という当たり前のことの 証明のように)私の中で些細な物語が生まれはじめる。そして、そのうち目の前を通り過ぎる一人一人に物語を付与したくなる自分の物語る欲望に気づくことになるのだ。


このように西崎 啓介の作品はアニメーションでありながら物語の主体が私にあるのである。そのことで、彼の作品を観る体験は私にとって、健全に(“健全な”ではない)物事 を日々考え、生活しているという、当たり前のことに気づかせられる。自分を知る一つの窓のような存在である。

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