作品レビュー「PORTRAIT:nemui」執筆:川越良昭
- tokyoeizobrig
- 2018年1月30日
- 読了時間: 3分

鑑賞作品:「PORTRAIT:nemui」原 藍子
執筆者:川越良昭
何気ないテーマであったり、ちょっとフェミニンな感じのするトーンであったり、原はアタマの中の言語領野で処理をしているのではなく、自分の肌と他人の気配が直に触れ合う架空の外皮が感じる部分で思考しているように思う。
そこでは論理的な整合性よりはたわいもないような共通の話題こそがとても重要で、それが作品世界を支配している。そしてみんな何かが欠けていて、そしてその欠けた部分で皆がつながり合うような世界。『PORTRAIT:nemui』は2014年から続いている“PORTRAIT”シリーズの3作目である。
PORTRAIT(ポートレイト)とは言っても、そこには具体的に描写可能な対象は無く“常に失われているもの”のポートレイト(肖像)であるところが原の作品の特色であるように思われる。2014年の『PORTRAIT:Jane Doe』では自己の生い立ちにまつわる心情を生々しく吐露するその女性の主人公こそ架空の存在(「役者の鈴木千慧と作者自身の記憶をミックスさせた架空の人間の25年間を描く」シノプシスより)であり、2015年の『PORTRAIT:Record』では外界の音が上手く聞こえないという自己の疾患を作品で再現しようと試みている。そして今回の『PORTRAIT:nemui』は“眠い(ということは寝たくても寝られない自然な欲求が失われた)”状態のポートレイトになっており、それら作品のすべてが“本来あるべき状態の欠落”を描いているということになる。
『PORTRAIT:nemui』は早廻しの昔の映画のようなコマの飛んだ映像で、つかの間の眠りから覚めて外出するために食事をして歯を磨く女と、寝返りを打ちこれから眠りに入ろうとする男を描いている。くぐもった「ス〜ハ〜」という呼吸音が常に聞こえていて、これは男女のカットで多少音の高低の違いはあるものの、どちらかというと常に誰か一人の呼吸音であるような連続性を持っている。私がここで考えるのは、このポートレイトシリーズは直接的に作者自身を描いてはいないながらも、そこで描かれた登場人物や作品世界からの反射として実は何よりも作者である原自身の“肖像画”ではないだろうかということである。さらに言えば、これらの“ポートレイト”は現実における原のリアルな“身体感覚(あるいは実存感覚)”の獲得のために必要なのではないだろうかということである。実際に音が聞こえづらいというのは自己の症状によるものであるし、今回の“眠い”というのも実生活で長時間仕事をする原の日々の感覚である。では『PORTRAIT:Jane Doe』における、存在しない人間の半生(のさらに1/2くらいの時間)をこと細かに描写するという行為はどうであるか。これは“Jane Doe”という主人公と原との近さ半分遠さ半分によって成立している作品だと言うことができる。
そして基本的に原の作品は一人だけではなく、自分以外のスタッフと一緒に作っていることが多い。これはいわゆる“個人映像作品”とは一線を引いているということであろうか。個人創作の名の下にぷっくりと膨らんだ“自我”を愛撫するだけで終わってしまう作品は確かに多いと思われるが、原の作品にそのような自己満足は希薄に感じられる。しかし一方で、私は原の作品もやはり自己言及的な物語だと思う。それは自己に関する“ある不在”を作品世界として客体化し、それをスタッフワークとともに作り上げることで、不在を含み込んだ全体的な表現として“物語化”し、それを観客とともに所有することで“私の不在(架空の外皮)”の在り方を改めて知るというような機能があるのではないだろうか。


