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作品レビュー「EVERLASTING SUMMERDAYS」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2015年9月1日
  • 読了時間: 4分

更新日:11月7日

natsuko kashiwada

アレゴリカルな探偵映画

執筆者:川越良昭


 大量のイメージ(記録映像)が消却されるというイメージ。堀裕輝の「EVERLASTING SUMMERDAYS」はそのようなメタフィクションからはじまる。


 その巨大なイメージの、ある一つの“消失”にさかのぼり、ひも付けるように老人やフイルム缶、ペインターボーイなどが出現する架空の物語。堀裕輝の作品の魅力は各カットが持つ“画ぢから”である。だが逆に映像にチカラがあり、写すべきものが明白であるからこそ作品全体がコンセプチュアルになってしまう傾向が今までにはあった。この作品では我々の多くが(実体験としてではないが)知っている終戦のイメージを巧みに混ぜることで、物語が抽象的になりすぎることを避けている。


 初老の男が煙草を吸う。「EVERLASTING SUMMERDAYS」はハードボイルドな探偵映画のようにして始まる。だが男が彷徨うのは都会の街ではなく戦争遺構としての廃墟である。フイルム缶を抱えながら、男はそれらの場所が持つ記憶を記録してゆく。かって“レンズ”が眼差した行為の相似として。これは失うための記録、幽霊たちの記憶。男が彷徨うのは、“すでに失われた地点から、失われることへ”退行する世界であり、ニヒリズムに満ちた空間である。だが、この物語から何を読み取り、何を見いだすのかは我々の問題である。そう、すべてを覚えているという我々の脳の機構と同じように。その匿名の膨大な“記録”の中からひとしきりアクセスされ、繰り返し読み出され見いだされるもの、それが我々のいう“記憶”となる。そしてこの“読み出す”行為は、いわば今を生きる生身の我々がおこなう行為である。この虚無空間を彷徨う男から投げかけられる、リアルな質問。壁に穿たれた、着弾の痕はその建物がくずおれるまで、その穴の位置を変えずに我々にその姿を晒しつづけるだろうし、決して壁を汚せないペインターボーイも未来永劫と壁にガスを吹き付けるに違いない。これらのイメージは、すでに時間が解決してしまったがゆえの“無力”=戦後に統治された(去勢された)日本のイメージと重なる。我々はすでに戦後の70年という時間を失ってしまった。主体的にであれ、そうでなかれ、すでに決定してしまった時間の上に立っている。だがこの(メタな視点からは)“平等に失われた記憶(たとえば大量消却された記録)”の中から選択され繰り返すイメージ。それこそが記録の一斉焼却という大きな暴力に抗う唯一の方法であることをこの作品は知っている。


 この作品の白眉は最後の白髪のアップである。男が抱えていたフイルム缶が焼かれ、煙とともに寓話空間から生還した男が、今までのしがらみを断つかのように出来(しゅったい)する画面いっぱいのウェーブがかった白髪は、リフレインが支配する今までの虚無的空間とは明らかに別の次元に属している。それは事実にひも付けられた“今の時空間”である。このように堀裕輝の「EVERLASTING SUMMERDAYS」は初老の探偵を彷徨わさせることによって、音のリフレインによって強化された“寓話空間”から、現代の私たちに問いかける。マッカーサーはコーンパイプをくわえた“ニヤニヤ笑い”を残して消えたりはしない。戦後のマッカーサーによる日本統治という史実。このような歴史的事実が実は焼かれた記録を上書きしたものなのではないかというような“不謹慎な気怠さ”をもってこの作品は終わる。ここには何の物語も存在しない。この作品で堀裕輝は、いままで語れると信じていた“物語”を“語れない”という座標軸で捉え直したように思う。だが、この“語れない”というレトリックの蜜を見つけた堀の映像は今まで以上に豊かで生き生きしている。まるで生きているように・・・。


「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、こつを伝授し、ブラウンが年老いたとき、ブルーがあとを継いだのだ。物語はそのようにしてはじまる。」ポール・オースター「幽霊たち」(柴田元幸 訳)


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