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作品レビュー「よる、窓を磨く」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2015年8月31日
  • 読了時間: 4分

更新日:11月7日


natsuko kashiwada

いまこの瞬間にも失われつつある、リアルな感触を記録する人

執筆者:川越良昭


 この作品の説明文に作者である池端規恵子はこのように書いている。「・・・最愛の祖母が亡くなった悲しみを、自分なりの形で受け入れるために制作しました」。『よる、窓を磨く』は自分を見守りつづけてきた祖母の死を作者が眼を凝らして見つめようとすることでまずは成立している。その一方で祖母の死が提出した“不在”という概念を、作者がみずからの現在そして身近な者たちの日常にまで敷衍して作り上げた作品であるともいえる。


 『よる、窓を磨く』は通りすがりの老人と作者が会話を交わす場面から始まる。「どっから来られたんで?」老人が聞く。「東京から」「東京か、ほぅ〜遠方の方からきたのう」。この時カメラはこの異郷の老人と同時に作者の不在をも写している。老人の歩く路地には作者を“舫う(もやう)”ことのない日常が流れている。そのような不確かな関係性を池端は、老人を二重露出で表すことで描こうとする。しかしこのように撮影対象を意味付けしたり固定したりしないことは、その撮影者を確かな視線を持たない透明な存在へと変えてしまう。そして自らの位置を確定しない池端のカメラが次に自分の家族を写す時、より強い不在の表現として我々には了承されるのだ。長いディゾルブによって、段々と薄くなってゆく家族写真の撮影風景。その後に続く祖母の遺影の飾られた仏壇のカットを目にして初めて、観客はオープニングから漂う不在感がこの祖母の死から生じていることを理解する。このように『よる、窓を磨く』で作者は“不在”へ注がれる眼差しをまず我々に提示したのちに、その不在を意味付ける祖母の死そのものを我々に知らせるという、いわば倒置法を用いている。ただし、その倒置法が祖母の死のイメージを強くするかといえばそうではなく、また作者である池端の気持ちがあまり描かれないことにより、本来彼女によって個人的に追悼されるはずの祖母の死が、この作品内ではフレームに収まった、見知らぬ誰かの日常と同等に扱われている。作者にとっては祖母のこのような取り扱いの軽さは不本意であるかもしれない。しかしこの『よる、窓を磨く』では、祖母の死に注がれる私的な感情よりも、このように作品全体に遍在する“不在”の仕組みを優先させた結果といえるだろう。だが不思議なことに池端の個人的な弔いの物語ではないからこそ、『よる、窓を磨く』での祖母はしだいに私たちの記憶を呼び起こす記録となって生々しく訴えかけてくる。かつての撮影者(ここには幼い作者も写っているので、おそらく作者の母だと思われる)が祖母に聞く「何歳になりましたか?」「五十六歳になっちゃったわ」。そう答えるときの祖母の憂いと恥じらいがあいまった表情は、池端個人のノスタルジックな回想だけに回収されるのではなく、観客にとっても祖母が過ごした五十六年に想いを馳せる契機にもなっている。また病室に横たわる祖母を囲んで何度目かの家族写真を撮るシーンにおいても、池端の家族は努めて明るく振る舞っているかのように見える。それはいまここに家族が集まり写真を撮る喜びに満ちてさえいる。この、カット一瞬一瞬に現れては消えてゆく人々の輝き、機微に満ちたこの私たちの日常。このように池端がこの作品で仕掛けた“不在”という欠落は、祖母の死によって永遠に奪われるものではなく、いままさにこの日常を生きている残された家族の笑顔やお互いに交わす軽口、見知らぬ人と交わす何気ない天気の会話などによって埋められてゆくだろう。そしてこの透明なる視覚、すべてを許容するようなこの『よる、窓を磨く』が獲得するに至った視線は、実は作者である池端が、祖母の記憶が一番濃密な小学生の時期に遡って作った物語なのではないかという空想をも誘発する。我々が見せられている物語は、祖母の死の意味が分からずに混乱したまま葬儀に参列させられている幼い池端の視覚なのかもしれない。そこで、優しい親戚のおじさんや甘いお菓子の記憶とともに、いなくなった祖母を想い出すような作品の仕掛けを池端は自分の悲しみを相対化するために用意したのだ。ラストシーンでカメラはスピードを上げてトンネルに入ってゆく。トンネルの中、闇に放たれた窓に写るものは池端の持つカメラそのものである。ここで池端は幼い自分が語る物語を客体化し、そこからまるで浦島太郎のように生還して蘇るのである。たとえ大人にもどった後も、幸せな祖母の記憶を抱えたまま。


 “よる、窓を磨く”その動きは暗闇に向かって“サヨナラ”をしているようにも見えるだろう。この作品で彼女は、いったい誰を送り出そうとしているのだろうか。窓を磨く夜はまた、部屋のこちら側が明るければ明るいほど窓に反射するのは自分自身の姿である。冥途に旅立った祖母に、そして(幼かった)自分自身にも池端は決別しようとする。サヨナラの代わりに窓を磨きながら。そうやって曇りが晴れた窓は明日の東雲にはきっと、大人に戻った池端に生気に満ちた新しい世界を見せてくれるだろう。


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