作品レビュー「さよなら私のかぞく」執筆:内藤慈
- tokyoeizobrig
- 2016年4月10日
- 読了時間: 5分

鑑賞作品:「さよなら私のかぞく」池端規恵子
執筆者:内藤慈
「家族」を被写体にした動画を作品化することは、なかなかに厄介な創作行為だと思う。
あまりに普遍的であるが故に星の数ほどつくられてきたし、あまりに身近なものであるが故に表現対象との適切な距離を見誤ることも少なくない。自己と家族の関係を描いた「ナラティブ」(「ストーリー」よりも抽象度が高いモノ語り)なビデオアートやセルフ・ドキュメンタリーを知る者であれば、このジャンル特有の感傷が眉をひそめるナルシズムに転化されてしまっている事例をすぐに思い浮かべることができるだろう。
池端規恵子はそういった困難と向き合わざる得ない【家族モノ】を、2012年から定期的に発表しているということになる。東京映像旅団ウェブサイトにおいて現在視聴できるのは『よる、窓を磨く』『さよなら私のかぞく』『堤防』。3作とも喪失の予感や死の匂いが濃いセンシティブな短篇だが、一方で【家族モノ】の危うさに対する論理的なストラテジーが講じられている。
まず、映像の本質的な手法や構造を作中に取り込んでいる点。そして、象徴的なイメージショットを有用に扱っている点だ。
前者でいえば『よる、窓を磨く』のディゾルブ(オーバーラップ)であり、『堤防』における逆回転の演出ということになる。双方ともベーシックな視覚効果を、テーマと合致させることで深遠かつ強烈な表現へと変質させている。後者は『よる、窓を磨く』の水滴まみれの窓や、『堤防』におけるカメラレンズを見返す車窓といったところか。人によっては違うのかもしれない。いずれにせよいくつかの抒情的なイメージが、実効力ある楔としてホームビデオの集積に打ち込まれている。
『さよなら私のかぞく』は、時系列的に『よる、窓を磨く』と『堤防』の間に位置する作品だが、シリーズ中もっとも複雑な印象を観る者に与えるものだろう。祖母の死というシンプルで強い出来事がベースにある『よる、窓を磨く』、母と娘あるいは過去と現在というシンプルな構図に焦点を絞った『堤防』に比べ、「祖父を撮る母親を撮る娘(作者)」という重層的な視線が錯綜しているからだ。さらには認知症を患っていると思しき祖父の状況、幼き日の作者がうつる動画素材、母親が暗闇のなかで映像を凝視する映像といった場面も重なることで、迷宮を思わせるカオティックな世界が現出している。
散在する記憶と記録が、互いの尾っぽを喰らい合う混沌。それは私たちを甚だ幻惑させるものだが、分かり易さに回収され得ない魅力の根源であるともいえる。
終盤の特徴的なシーンを挙げよう。
母親を撮る娘を撮る母親。と思いきや母親はカメラを置き去ってフレームアウトし、あたかも数十年の時を飛び越えるように、切り返された過去の動画へフレームインする。「象徴的なイメージショット」を挟み、ふたたび母をみつめる娘の視線(なにせ子供時代の声まで流される)。その後カットバックされるのは娘の姿――ではなく過去動画を再現した構図におさまる現在の祖父。そして、過去動画における祖父と孫と(おそらく)祖母の様子がつづく。――と、同じ場所での現在の遠景。その撮影者は娘なのか母親なのか、もはや判然としない……
眩暈のするような眼差しと時空間の交感だ。
前述した「映像の本質的な手法や構造」および「象徴的なイメージショット」を本作に当て嵌めるとすれば、それはそれぞれ「見る/見られる関係」と「紙クズのようなゴミが乱舞しているカット」ということになる。映画フィルムに対しビデオは即時的な映像であり、リアルタイムで生成されるという特性において人間同士の「見る/見られる関係」を具現化したメディアだ。祖父をみる母をみる娘という「見る/見られる関係」は、単純な二点間の往来に比べ、私たちを混乱させるものではあるものの、ビデオの本質を孕んだ道先案内として機能し、その全体像は紙クズが乱舞するワンショットとして集約されている。さらに付け加えれば「母親が過去の動画素材と同じサイズ・アングルを再現しながら撮影する」というアイデアも観客をナビゲートしているわけだが、ここまでくると総合的なバランスとしてやや要素過多だったかもしれない(この儀式は次作『堤防』においてより洗練された形として反復されている)。
さて、最後はやや突拍子もない話をしたい。ここまで考察をすすめてきて、筆者はささやかな妄想にとらわれている。
ひょっとすると池端規恵子は、カメラそのものになりたいのではないだろうか?
意思も意識もなく、現実を模した画像の連なりをただただ複製する機械。
母親を見つめ返す眼光にどことなく冷徹なものを感じるから?そうかもしれない。徹底して被写体としての自分を回避している態度?それもあるだろう。
ラストカットのひとつ手前、母娘によって交わされるダイアローグがある。声だけとはいえ今まで決して姿を現すことのなかった、ほとんど例外的な撮影者=作者の気配だ。
はじめからきちんと作品を視聴した人間であれば、メタ的な意味合いを帯びたこの会話から皆同じような感慨に至るはずである。画面上の「見る/見られる関係」に、私たちは母と娘という安易な物語をみてしまう。それもまた池端の計算の裡にあるわけだが、必然的に導き出されるその答えを、彼女はあくまで拒絶したいのではないか。そのために何も考えない「カメラそのもの」になること――【家族モノ】に反駁するような【家族モノ】の手触りは、そんな欲望から生み出されているように思えるのだ。


