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作品レビュー「21日を見つけに」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 4分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 池端の作品には緊張感がつきまとう。それは常に“不確かなもの”に目を凝らし、カメラを向けるというその姿勢に起因するのだと思う。


 そしてその“不確かなもの”は決して姿を現さないし実際に存在するかも分からない。あえて言えば、そのようにないかもしれないものに向けられた“不在というフレーム”のようなものを撮っている。そしてその無いかもしれない“気配”のようなものに向けられた視線が自分の家族へと向けられたとき、池端作品オリジナルの生き生きとした艶っぽさが作品に漂う。


 一見すると、今回の作品の良し悪しは分かりやすいように思われる。上手くいった点は、母親だけをモノローグの話者にしたところであり、上手くいかなかった点は、例えば4月4日というような“月日”と、タイトルにある21日という“日”を混在させてしまったことだと思うのだが、果たして本当にそうだろうか。かつて2014年の『堤防』において、あれだけ混迷を極めていた素材と一部同じ素材やモチーフを使いながらも、今回の『21日を見つけに』においてこれだけ収まり良く構成できてしまうものなのだろうか。また2015年の『ふたつの弔電』ではすでに母親だけのモノローグが試みられているのに、今回とは何が違うのか。


 まず“月日”と“日”を混在させてしまったところが上手くないという点については説明が必要だと思う。例えば2月3日と言ったときの日付の持つ意味と、3日と言ったときの意味とではリアリティー(我々の日常感覚からの近さ)が違っている。ただ“3日”と言っただけでは1月3日でも10月3日でもいいのだがそれを“3日”というとき、3日という日の記号化あるいは象徴化が起こっている。3日とだけ言うとき、そこにはすでに強いフィクション化が起こっているということだ。もちろん作品をよく見て行くと、月日から日だけを表すシークエンスになってゆくにつれてSE(サウンドエフェクト)が大きく作りものめいてきて、ここで作品の虚偽性が強くなっていることは理解出来る。だがここで重要なのは“結局我々はどのようなフィクションに導かれようとしているのか”の提示がないので、やはりここでも“何かが暗示されている”という理解のまま作品が続いてしまうのだ。“月日から日だけになる時の物語の切り替え”これは難しい問題である。なぜなら月日と日とにはもともと大差がないが、日付は我々のリアルな日常と密接に関係しているので、“日”だけになった時に生じる漠然とした違和感をどう処理したらいいかわかりにくいからである。やはりここには“写真がない21日”の、よりフィクショナルな造形(21日にあったことを匂わせるもの)がもっとあっても良いのではないだろうか。


 だがしかし、この『21日を見つけに』は池端が家族をテーマにした作品(2013年『さよなら私のかぞく』、2014年『堤防』、2015年『ふたつの弔電』)の中では、とてもバランスの良い作品になっている。その大きな要因は、彼女の作品に漫然と漂っていた“不在”に仮にも名前を付けたことである。そして、その名前が“21日”。今までの“何ものかの不在”というものから“21日の写真だけがない”というフィクショナルな具体へとシフトしたことで作品に輪郭ができた。そしてもう一つは、写真という“記録”を構造的にかつ視覚的面白さを伴って見せたことである。それが暗い畳の間の奥の方で声の主である作者の母親らしき人物が写真を並べるカットと作品全体のビジュアルにもなっている一枚一枚の写真が記録の標本のように整然と色とりどりの待ち針で留められているカットである。これらのカットがあることで、写真が見出され眺められるという時間とそれぞれの写真についての記憶が語られる時間という構造を作品が持つことができるのだ。


 このように初めて池端作品を観る人たちにも『21日を見つけに』は取っ付き易い作品であると言える。しかし何年も池端の作品を観てきて、一番恐ろしい(楽しい)のは現実と虚構が主従を争って足を引っ張り合うような瞬間が作品に訪れる時である。それはひどく混乱していて混沌とした(例えば2014年の『堤防』のような)作品であったりするのだが、そのような作品を見ている時には、自分が本当だと思えばそれが本当に見え、嘘だと思えば嘘に見えるというような禍々しい動きが作品に渦巻いている。そしてそれこそ本来カメラでは捉えきれない筈の“不在”の働きを絶妙に表したものだと私には思われるのだが果たしてどうだろうか。

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