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作品レビュー「I can’t understand. I don’t understand.」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 2分

更新日:11月7日


natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 水道の蛇口からゆっくりと垂れる水滴。さらに非常にゆっくりと誰かの演説するような声と聴衆の拍手のような音が不鮮明に聞こえる。我々はここで水滴が垂れ続ける蛇口を10分間見続けるという体験をする。おそらくそれは何かについて考える時間なのであろう。


 ここで例えば、我々が聞かされている音声が近年行われたある大国での大統領選挙後の勝者と敗者の演説であるということを知っていれば、我々が思い巡らす10分間に共通のテーマを与えることができるかもしれない。しかし石井の作品はそのように“あらかじめ”読み解かれることを頑なに拒否する。その“ただ視続ける”という行為をするうちに、私たちは次第にスクリーンに流れるスローがかかった水滴が落ちるタイミングと考えるスピードを合わせてゆく。そして、この情報量の少ない映像を無心に眺め、あるいは真剣に何かを読み取ろうとする“体験”を一人一人が共有していることに気づく。それは我を忘れて引き込まれながら観てしまう娯楽作品とも違うし、ある象徴的なカットで何かを理解するような読み解きゲームでもない。あえて言えば観客一人一人がいまこの映像を観ている自分の存在を強く意識するように出来ている。だから、石井作品が流れる上映会場にはいつも緊張感が漂っている。その会場の一番後から観客の少しこわばったような後ろ姿と、スクリーンに流れる作品を同時に鑑賞するのが私のお薦めである。


 そして最大の効果を生むタイミングで、石井は次の言葉を投げかける。“If something can change the mind. I call it’s Art. Fuck the all bastards living by the authority of Art.”


 この言葉に対して我々は逃げることができない。なぜなら今まで冷静にこの作品に対峙していたのは、他ならぬ“私という意識”だからだ。この作品ではどんな“他者(フィクション)”も責任を取ってはくれないのだ。


 そのような私の危機感を感じとったかのように作品は、垂れてしまったはずの水滴が一滴二滴と蛇口へ戻ってゆくところで終わる。ここで初めてフィクション(もしも)という“仮定のライン”が我々の前に引かれた。このときあなたはホッとするのだろうか。それとも苦い気持ちで作品を観終わるのだろうか。



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