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作品レビュー「118.5km/6分」執筆:内藤慈

  • 2016年10月8日
  • 読了時間: 4分

natsuko kashiwada

執筆者:内藤慈


本作の構造はいたってシンプルだ。

同一場面からスタートしたふたつの映像が、別々の空間を経由し、再び同じ場所を共有するまでの6分間。

その即興的なワンカットを、分割画面として並列したものである。


ひとつは郊外から東京へと移動する作者と、そんな自分を同時にみつめている自分。

もうひとつはビデオカメラを媒介にした、隣人たちによる眼差しのリレー。


先に作者である磯崎愛生について少し説明しておこう。

この作品の発表時点で、彼女は<渋家=シブハウス>という若いアーティストやクリエイターが集まって暮らすシェアハウス(まあ渋谷にあるんでしょうね)に入居しており、多様な表現者たちとの共同生活を送っている。また、映像制作以外でも人気アイドルを擁する音楽グループ<ブスNY行きたい族>の一員として活動するなど、パフォーマーやモデルといった顔も合わせ持っているようだ。

ヘタな深読みをせず、ベタにベターに考えればビデオカメラをバトンタッチしていくのは渋家の住人たちであるだろうし、東京ないし渋谷までのロードムービーの出発地は自身の故郷、ということになるのだろう。

そういった背景から、あまちゃん的上京による感傷やら、テラハ的状況による干渉やら、妄想を働かせる鑑賞も、きわめて真っ当な観照に思える(そもそもテラスハウスは渋家が元ネタらしい)が、軽妙で飾り気のないマチエールの下には、思いのほか硬質な「みること」と「時間」についての骨格が隠されている。


みる、或いは待つ私と取り結ばれる「かつて、私が過ごした時間」と「いま、誰かが過ごしている時間」。

前者は「みること」の二重性を、後者はその限定性を、強く印象づけるものだ。


日常的に営む「みる行為」において、「ただ、みる」ということは通常あり得ない。

それはあくまでも過去の記憶や経験を参照することによって、意味や情動をともなった知覚として立ち上がってくるものであり、知能が未発達の幼児や何らかの障害によって思い出を持たない人間を除けば、常に「過去」と「今」という二重の時間を「みている」ということになりはしないだろうか。

また、私たちは自らの五感によって感知できる「いま、ここ」以外の世界を認識できない。

遠い国の事象はおろか、ごく身近な出来事でさえ、視線が届かず聴取が及ばなければ、主観としては認めようがないのだ。

ビデオカメラという機械を通してだからこそ存在し、連結されるルームメイトたちの「いま」と「ここ」は、偏見や先入観を排したところで「万物をありのままにみる」という現象学的な視座を、どこか含んだもののように感じる。

折り重なる、ふたつの「過去」と「今 いま」。

そしてまた、両者の関係は不確定な「未来」をも浮き彫りにする。


批評家の佐々木敦は、映像や録音された音楽といった<時間をパッケージした表現>における「タイムマシン性」についてたびたび言及していて、それはもちろん記録された過去への時間旅行という側面もあるわけだが、より重要なこととして提示されるのは、2時間の映画であれば2時間後、4分33秒の楽曲であれば4分33秒後に私たちを連れていってくれる乗り物、というきわめてユニークな考え方だ。

この魅力的な見地から『118.5km/6分』を捉えてみると、映像がはじまってから6分後の未来へみる者を運ぶタイムマシン、ということになる。

そういった心持ちで眺めると、プロジェクションを注視する磯崎の後ろ姿は何かのコクピットを思わせるし、彼女を取り囲むスプリットスクリーンはワープ航法の亜空間を連想させなくもない。

佐々木がよく引き合いに出す事例としてタルコフスキーにおける荘厳な長回しや、初期の北野武における無為の時間などが挙げられるが、ここで滲み出ているのはタイムトラベルへの無邪気な憧憬だろう。

たとえばデロリアンを前にしたマーティ。

あるいは引き出しの中を覗きこむのび太。

パラドックスやパラレルワールドといった複雑怪奇なロマン以前の、イノセンスな意の感覚。


ここまで純化されたビデオアートには、作者のパーソナルがどうしても色濃く反映されてしまうものだと思う。

アイデアや設定だけ聞けば、郷愁を誘うような雰囲気になってもけしておかしくはないのだけれど、『118.5km/6分』はあくまでカジュアルでスタイリッシュで、湿っぽいところをほとんど感じさせない。


旅の途中で、妙に気に入ってしまった滞在先からの絵葉書。


それはおそらく磯崎愛生のタイムトラベルがいまだ道半ばであり、未来への憧れをごく自然に纏っているという証左でもあるのだ。


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