作品レビュー「日の名残」執筆:池端規恵子
- tokyoeizobrig
- 2015年9月1日
- 読了時間: 2分
更新日:11月7日

鑑賞作品:「日の名残」垣田篤人
純粋すぎるほどのカメラ
執筆者:池端規恵子
この作品は、作者の日常の様々なシーン、非常に断片的な映像のかけらを集めて作られたものだ。作者によると、これまで携帯で撮影してきた動画データが主な素材らしい。おそらく作者の飼い猫と思われる猫の映像から始まり、どこかの祭りの神輿(きっと古い携帯で撮影されたものだろう)、看板のネオン、木々の木漏れ日や雨の日の窓、夜の駅や商店街など…誰しもどこかで見たことがあるものが、淡々と流れてゆく。
難しいことは抜きにして、私は見ていて面白かった。単純に、これらの映像を撮る作者の姿を思い描くことができたからだ。人混みの間から神輿の様子を撮影したり、通行人(声だけが聞こえる)をよそに街路樹を映し続けたり(きっと通行人は「この人何してるんだろう」と作者を訝し気に眺めたはずだ)。私自身の撮影経験とも重なって、作者の姿を勝手に自分と置き換えて楽しんでいたのかもしれない。夜の高架下のシーンでは、向かってきた自転車が思いのほか自分の近くを通り、あわててカメラを背ける様子が記録されている。何かを集中して撮っていると、そういうことはよくあるなと共感した。
しかし作者は、一体何を撮ることに集中していたのだろう?
作者の撮り方は状況をわかりやすく説明しようとするものではないし、アングルや構図に洒落っ気も感じない。というよりむしろ、作者の視線のまま(作者の背丈から見える、作者が見たもの)を撮ろうとしているように感じる。その目と対象の間にカメラがある…と言うような。作者は、何かを見ようとしているのだろう。しかしその意志は強く感じても、私には「なぜそれを見なければいけないのか」という理由を想像することができない。作者が本当に見ようとしている“何か”を、私にわかりやすい形では提示してくれないからだ。そもそも理由があるのかどうかもわからない。もっと本能的に、ただ引き寄せられるように見つめているのかもしれない。
これらの“自分が何かを見つめた”記録を集めて繋いでみた時、作者本人は何を感じたのだろうか。自分が見つめていた理由、その輪郭をつかむことで、過ぎ去った『日の名残り』を感じ取ろうとしたのかもしれない…と私は想像している。


