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作品レビュー「FORMULA」執筆:F.N

  • tokyoeizobrig
  • 2015年12月1日
  • 読了時間: 4分

natsuko kashiwada

一枚の画の持つ質量

執筆者:F.N


 この作品は、出来る限り大画面で観た方がいい。もしスクリーンや大型モニターがなくパソコンやスマホで観るならば、焦点が合うギリギリまで画面に目を近づけて観るべきだ。というのは、川越の映像は人間の眼球の動きと目から入った情報が視神経を通り、脳で処理されるまでの時間を巧妙に計算して作られているからだ。


 至極アタリマエのことだが、映像作品というものはすべて監督にとっては何千、何万回と繰り返し見た映像の連なりであり、一方観客にとってはどんなにありふれた映像であろうとも、その時初めて目にするものである。つまり、カットが変わるたびに「この画は何だろう」「どこかの風景だ」「真ん中に道路が見える」「たくさんの人が歩いている」「ここは大きな交差点だ」「ああ、渋谷のスクランブル交差点ではないか」と、コンマ何秒かで理解している。では、観客の視点は画面上をどう動いているのだろう。ふつう、映像を見せられた場合、まずは画面内の光や色に最初に目がゆく。次に動きのある部分に視点が移動する。その後、画面上をぐるりと右回りに流し見して全体像を把握する。


 作家は、その画を観客が理解する時間を見極めてカットの秒数を決めなければならない。短すぎるとわからないし、長すぎると意味を深読みさせることになり印象がぼやける。この点において川越の作品はカットのデュレーション(尺)が絶妙である。その画に対して認識する時間が適切に与えられている。さらに、画からストーリーを見出そうとするほんのわずか前に次のカットへ移ってしまう。このリズム感が全体を通して流れているので「いったい何なのか?」という問いを感じる隙間がない。ただ純粋に、映像と映像の間に生まれる化学反応だけを楽しむことができる。


 「そのカットにおいて一番ベストな時間とは?」この問いに対して、プリミティブに追求し続けた結果が川越作品の特徴になっているのではないだろうか。「FORMULA」の前作「きれいな日」において川越は、夜空に打ち上げられた花火の映像から一転、夏の富士山の画に続く衝撃的なカットチェンジを見せた(しかもそのまま作品は終わる)。おそらく作者は「きれいな日」で映像と時間の関係性について何らかの答えを見つけたのではないかと思われる。なぜならこの「FORMULA」で、作者は映像と時間という2つの要素だけでなく、今度は画に写っていないものに対して興味がシフトしているように感じられたからである。


 画に写っていないものとは何か。ここでいう写っていないものとは、四角い画面の外、という意味である。世に溢れる「映像」は、ほぼすべてが長方形の枠の中で表現されている。ところが、我々の肉眼がとらえている世界は、当然ながら四角い枠で区切られていない。人間の視界は横長の楕円形であり、ピントが合っているのは中央のごく一部、そしてそこから離れていくにしたがって視界はぼやけていく。人の目は横に並んでいるから横長画面が見やすい、というのであれば四隅をあえて直角にする必要はないだろう。


 さて、「FORMULA」は、この映像という四角い枠の存在を強く感じさせながら(青い四角が何度か出てくるのはその象徴であろう)、映像内の奥行きだけでなく、上下左右、さらには斜め上、斜め下といった画面外へ向かって広がる世界を見せてくれる。例えば腕が写るシーン。腕の一部にしか光源がないので、誰の腕かはわからない。男性か女性かもわからない。血管の浮き出具合、皮膚の質感からおそらく高齢の人物であろうことだけが推測される。そして腕はもう一度現れる。今度はわずかに腕の向こう側が見える。足首があるようだ。そして、先ほどの腕は足首を回している状態だったことがわかる。つまり、この映像は画面からフレームアウトしている様々なものを感じさせようとする作者の意図なのではないか。この場所はどこなのか、なぜ足首を回しているのか、この人物はどんな顔をしているのか、彼(彼女?)はどんな人生を送ってきたのか…。


 そしてエンディング。画面は両側から狭まりその存在感は失われていく。映像という長方形の舞台と、その外にある世界を感じさせながら作品は終わる。そして観客は一瞬で映像の外(自分の現実社会)に戻ることになる。この二重でもあり三重でもある仕掛けは圧巻だ。


 たとえるなら、川越の映像は二次元、三次元、四次元、と進化を続けている。次の次元では何を見せてくれるのだろうか。



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