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作品レビュー「トランジスタ、 カンタータ」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 3分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 今回の川越の作品は、まるで観客一人一人が意味やストーリーを見つけるゲームのようである。そのために川越はこの『トランジスタ、カンタータ』において、ある一連の何カットかを見てもあまり意味やストーリーが生じないような編集をしている。


 例えばこの作品の中の、ある2カットの繋がりに観客の誰かが“消滅”というようなキーワードを見出しても次のカットが積極的に“消滅”を伝えるのでなければ、彼(彼女)はその3カットに共通するまた新たな言葉や感覚を探し出さなくてはならない(意味の繋がりを見つけたり<=ON>、今までの繋がりを否定されたり<=OFF>、まるでON / OFFを繰り返すトランジスタ回路のように)。この時、この映像作品の上映空間には(積極的な意味を派生させない)一連のカットの流れと観客がそこに見出す感覚や言葉、記憶など、連想されたイメージの軌跡とが幾つも同時に存在する、いわば“ポリフォニック”な状態が訪れるだろう。


 我々が一般的に映像作品を観るとき、ストーリーや意味解きなど作品の中に流れる“因果関係”を読み取ることに意識の重点が置かれている。それは映像作品が常に目の前から消えていってしまうもの(イメージ)であるため、私たちはいつもそのイメージが消え去ってしまう前に焦って意味付けをして、何か解りやすい(そして確かだ)と思われるものに変換し固定しようとするのだろう。だが“イメージ(映像)は、ただボケ〜っと見ているときが一番豊かである”と川越は考えている。でもだからと言って川越作品の中に意味やストーリー的なものが何も無いわけでもなく、それらに類するものがこの『トランジスタ、カンタータ』の中にもある。それは全体的に流れる“移動”という感覚と、部分的には映像を見たときに私たちが無意識におこなう類推が長くそして上手くいくか、あるいは遮断されてしまうかという、作品との関わり方の強度によってもたらされるその時々の電流の強さのようなもの。このように映像作品から通常与えられるもの(意味やストーリー)を反古にして、抽象化された時間の造形や複層化されたカットの進み方が、結果的に観客の意識と相対的な“ズレ”を生じ、そのことで有限で一方通行の映像作品が持っている“枠組み”のようなものを自由に組み替えるようなことができないだろうか。


 川越は2015年の『だって、あさって』において、ラストカットとラストカット以外のすべてのカットを等号で結んで成立するような形を考えた。ラストカットが作品内容とは切断された完全外部にありながら作品のすべてに影響し、時間の流れを組み替え逆流させるようないわば“引力”を持つものとして。そしてその“引力”の存在を問うような映像作品が作れないだろうかと考えたのだ。だがやはり(私が今ここでしているような)作品が持つ試みの説明なしに『だって、あさって』に対する批評軸は持ちにくい。なぜならそのような(積極的な意味付けをせず、常にズレながら観るというような)映像作品との接し方が観客には元々無いだろうし、作者である川越にとってもそのような映像作品の成立は推論の域を出ないからだ。


 “イメージ(映像)は、ただボケ〜っと見ているときが一番豊かである”この無意識と意識の中間に硬くて透明なガラス面があって、そこではすべての流れが許されている。なぜならばそれこそが“イメージ”であるからだ。だからすでに見て知って理解してしまったものは“イメージ”ではない。その一瞬にしてすべてが与えられるイメージにたどり着くには、どのような距離感やスピードが相応しいのか。いつもそんなことを考えながら川越(私)は作品を作っている。



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