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作品レビュー「サルでもわかるJK落語」執筆:川越良昭

  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 2分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 三木はるかの作品はいつもダイレクトに三木はるかに繋がっている。いや、こうであったかもしれない三木はるかに繋がっている。


 それはもしかしたら“If”で始まる仮定の物語に、さらに強く働く“私のIf”というパラメーターを導入したような物語である。過去の作品ではバスガイドになってみたり、今回の『サルでもわかるJK落語』では女子高生YOUTUBER風であったり、実際の職業である塾講師としての彼女が出てきたりする。しかしそこまではよくある妄想系で終わってしまうのだが、三木の作品がユニークなのはそのような変わった格好をして本来私たちとは違ったチャンネルに存在しているはずの三木はるかが突然私たちの隣にやってくるような感覚を持つことである。まるで日常的に私たち個人個人を遠ざけているディスコミュニケーションの薄い膜をプチっと突くように。この『サルでもわかるJK落語』でも女子高生YOUTUBERが自分でさばいたサンマの刺身を盛ったお皿を持ち、すぐ電車に乗って(塾に通う実際の女子高生に人気があるという)同僚の男性講師の自宅まで赴き、玄関口で食べてもらうという部分が三木はるか作品の本領発揮というところであろう。夜に自宅を訪問された同僚が嫌な顔をしながらもサンマを食べてくれるというリアルな反応はもちろんシナリオも演出もなく、まるでテレビ中継を観ているかのような気になる。この時、その男性講師も実在する講師としての存在ではなく三木作品の登場人物の一人となる(しかも素のまま、三木のように何のキャラクター設定もなく)。


 私たちは作品作りにおいて、よく日常的な体験を“抽象化”して、いわば現実的に起こることとは距離を置いて作品世界を創ろうとするが、三木の作品はそうではない。日常に起こることを私から切り離し“変換”して話を作るのではなく、日常の中で自分を周りから“変換”したアバターのような存在になり、そこで話を作っている。私という存在と私の頭が考えた創作世界が別々にあるのではなく、現実の三木はるかも作中での創作(アバター)としての三木はるかも同時に存在しそれを私たちは目の前にしているのである。だから三木の作品を見た後は何か生々しい感覚が私たちの身体に残る。それは今まで自分が分別していた、同じ人に対する本音と建前の態度を一度に求められているような落ち着かない感覚である。


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