作品レビュー「快速急行ガタゴトフィルム」「日記自転車」「16日間」「ガタゴトフィルム交換日記」執筆:川越良昭
- 2016年10月14日
- 読了時間: 5分
更新日:2025年11月13日

鑑賞作品:「快速急行ガタゴトフィルム」
すべて 野村建太
いけずな作家、大海を目指す
執筆者:川越良昭
映像を語る言葉が貧しいからだろうか、野村建太の作品を“日記映画”などと言ってしまう自分がいる。確かに彼は学生時代から自分の周りの日常にカメラを向け作品を作ってきたが、それが日記(風)と呼ばれる所以はどこにあるのだろうか。
あらためて彼の7年前の作品『カメカメララライフ』(2009年)を観てみると、初めてビデオカメラを手に入れた高校時代の映像や創作系大学での日々など、いわゆる映像に興味を持った人間がおよそやるようなことが記録されている“普通”の作品であるのだが、反面そのスタイル(の一貫性無さ)においてちょっと変わった作品になっている。というのはこの『カメカメララライフ』は作品の後半で、今までモノローグで進行していた自身のナレーションが消滅し、ただ“視るだけ”の作品へとなってゆく。カメラは手術した自分の手首や、雨の日のカタツムリなどを淡々と記録するのみになってしまい、それはあたかも突然思春期に差し掛かった男の子がまったく話さなくなってしまった家族の戸惑いを想起させる。そののち野村建太の『カメカメララライフ』は私に(しかるべき?)記憶障害をもたらした。この『カメカメララライフ』の(視るに徹した)後半シークエンスを私はこの7年間どうしても思い出せないでいたのだ。これは例えば野村建太の名前が貼られた記憶の引き出しから日記映画風の作品イメージを取り出そうとすると、そこに作品全体が入っていないというように安易に作品をカテゴライズすることの不信感を私に与える。
“10月5日(土) 日記を書くのが苦手なので、4日分も溜め込んでしまった。”
時間は(ちょっと)飛んで、この(鈴木志郎康の『15日間』をオマージュしたであろう)『16日間』(2013年)で野村建太は16日間に渡って400字詰め原稿用紙に日記をつけることを始めるのだが、すでに3日目にして日記を書き続けることをやめてしまう。9日目には原稿用紙を切らし、次第に原稿用紙を自作することに熱中しはじめる。そして最後の10月16日、彼が日記を書きつける紙に、すでにマス目はなく白紙に書き進められた文章はこのようにして終わる。
(かねてから工事中だった)“ゴルフ練習場の鉄骨が風にあおられ、ぽきりと折れた。そんなことはなかった。”
・・・これはわざとやっているのだ。まさしく日記風の個人映像作品を作ると決めたと同時にその“日記風”である約束事を解体しようとしている人間の所作である。あたかも日記映画というようなものが“形式化”してしまって、そのために茶化し、誤魔化して本当に取るに足らないものに還元する必要があると言わんばかりに。その意味ではこの『16日間』での本当の“主役”は文字を書きつけられ演技さえする原稿用紙ではなくて、忘れ去られた解体中のゴルフ練習場なのであろう。
去年、彼は『快速急行ガタゴトフィルム』(2015年)という作品を作った。表現的な特徴としては、『ガタゴトフィルム』(2011年)『ガタゴトフィルム2011』(2012年)『ガタゴトフィルム交換日記』(2012年)と同じく、自らがカメラを向けた日常をコマ単位で編集してゆくものである。それは例えばジョナス・メカスの『WALDEN』(1969年)にあるような、ひと続きの動きを細かく抜いてジャンプカットするように見せてゆく作品の手法と似ていて、(「アマチュアの人が旅先で撮影したり、子供の成長を記録したりしますが、<省略>メカスは短いカットをハートビートとして断片的に積み重ねてゆく方法を発見し、見られるものにした。そこまでいけば、ホームムービーも表現になることができるんですね。」『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』金子遊編著、より鈴木志郎康の発言を抜粋)、とくに新しくもない“普通の”作品であると言えるだろう。しかし我々はすでに学んでいるように野村建太の作品においては、この“普通感”がいたって曲者なのである。去年の上映会場で『快速急行ガタゴトフィルム』を見終わったばかりの知り合いが興奮しながらこう言っていた、「20分間、刮目して見入っちゃったよ。」私は同じ会場で二晩続けて『快速急行ガタゴトフィルム』を観たのだが、この作品は今まで野村建太が作ってきたものとはある意味で全く違うものであると思っている。かつて彼は一連の“ガタゴトもの”で数十年前に父が撮影したフィルムと自身がビデオカメラで撮影した映像を細かく混ぜ合わせることで、時間やメディアの往還というコンセプトのもとにそれらの作品をいわば“フィクショナルに”作っていたと思うのだが、この20分間も続く『快速急行ガタゴトフィルム』を観たときに私はこう思った。「・・・これはマジでやっているのだ」と。野村建太はこの『快速急行ガタゴトフィルム』を一種の“アニメーション”だと(真剣に)思っているのではないかといまでは思う。延々と続くかに思われる、切断された動きの中から我々が習慣的に文節を探し始めることで現れる幻視体験がこの作品の霊魂(anima)である。ガタゴトという駆動(映画を成立させている原理=仮現運動へのオマージュ)音に馴致された我々が受けるその直截的な体験にはフィクションもコンセプトもなく、あたかも目的地のない石段が延々と続くような光景を思わせる。そのような日常がただの質量として我々の前に現れるとき、私たちにできることは名前も意味づけることもなく、ただ目を見開いて「ああ~」と詩吟するようにつぶやくことしかまるでできない。
「<ぼく>という言葉のほうは、細い針の尖のように小さく小さくなっていったけれど、それは決して消滅はしなかった。むしろ小さくなればなるほど、それは頭の中から彼のからだの中心部へと下りてゆきながら輝きを増し、いまや海ととけ合った<海>の中で、一個のプランクトンのように浮遊しているのだった。」『コカコーラ・レッスン』谷川俊太郎





