作品レビュー「世界からコマが消えたなら」執筆:川越良昭
- tokyoeizobrig
- 2018年1月30日
- 読了時間: 3分
更新日:11月7日

鑑賞作品:「世界からコマが消えたなら」野村建太
執筆者:川越良昭
野村健太作品においては、例えばフィルムの上映機構を“ガタゴト”音を立てる乗り物に見立てたりとか、日記を書くための原稿用紙をD.I.Y.的に自分で“創作”したりとか、常に本人が選びとったメディアの誤った使い方を彼が“発見”し、本来とは違う取扱いかたでフィルムや日記がその時その時を再現するときに生まれるリアルなドキドキ感を共有するという楽しみかたが一つにはあると思う。
使い古され、語り尽くされたメディアと意識的に距離を取るこの遊びのような、いや、もっと引いた目線で捉えれば、そのような既定制度へのちょっとした復讐(ルサンチマン)も彼の作品には垣間見える。また彼のこのような試みに混在する“ねらい”と“たまたま”の間に、彼が創作する映像作品での主人公である“野村健太”というキャラクター(視点)が造形されるところに、コンセプトだけに終わらない映像作品としての面白さがあるのだろう。
『世界からコマが消えたなら』で野村は、制作環境がデジタル化され物理的なコマが消えた環境を(アフターエフェクト内の)3D空間に“コマ”を積み上げて作成したフィルム片を置くことで検証しようとする。ここで言う“物理的なコマ”とは1コマを他の1コマと分ける構造的な枠(フレーム)のことだろうか。手にとってフィルムを見ると分かるが、上下のコマとの間に必ずある黒い帯、これが(例えば)1/24の一瞬と次の1/24の一瞬とを分けている。だがこの黒い帯はやはりフィルムに穿たれている四角い穴“パーフォレーション”によって上映時には1コマ1コマ整然と順送されるので我々には見えない。このように普段何気なく映像作品を見ている人々にはすでに“コマが消え”ているし、意識のありようでいくらでも数時間の映画の中にも“一瞬(1コマ)”を見出すことができる。では野村はこの『世界からコマが消えたなら』においていったい何を問題としているのだろうか。
野村は整然と並べられただけの静止画群(フィルム)から動画が誕生する(大仰にいえば)“ファンタジー”が起こる瞬間が失われ、我々には当然のようにファンタジー発生以後しか享受できなくなってしまうことを問題にしているのではないだろうか。何の変哲もない風景が切り取られ1コマ1コマ定着されたフィルムに漂う“アウラ”。この動画以前の状態が物理的に存在するということ。『世界からコマが消えたなら』では、この動画以前のフィルム片が白い空間に置かれ、(架空の)カメラがどんどん近づいてゆく。そしてカメラはフィルムの上辺から下辺へ、そしてまた上辺へと次第にスケールとスピードを上げながら移動していく。果たして我々は最後には動画として見える画角と速さに達するのではあるが、どうにもコマが安定せずに中途半端な動きのまま黒い帯も画面の中で上に下にカタカタ跳ねる。これをフィルム上映機によるパーフォレーションの制御がなく、3D空間での疑似運動から起こる単なるコントロールミスと言うこともできるだろう。だが、もしこのカタカタ跳ねるフィルムの“黒い帯”を鑑賞するためのフレームを野村が用意していたのだとしたら・・・。今まで我々の前からは消えていた“コマ(フレーム)”の存在を彼はわざわざデジタルな3D空間から見つけ出してきたということにはならないだろうか。このように野村の作品はそれを読み取る者の試み次第で色々に楽しむことができる。それはおそらく野村自身が“この作品ではこれを伝える(コンセプト)”というのを厳密に決めておらず、何か表現的に面白いことことが起こりそうな環境を設定するのが上手いからだと思う。


