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作品レビュー「しょう利はわがてに」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 5分

更新日:11月13日


natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 それぞれ別で作品を作り上映会に参加していた西崎と岡村が数年前よりチームとなって共作するようになった。


 二人が毎年どのようなチカラ配分で作品を作っているのか詳しくは知らないのだが、私が西崎・岡村の作品(2013年『room』、2014年『Impro.<インプロ>』、2015年『10年後の24歳へ』)に一貫して感じることは、念密に計算され尽くした“完成作品”を作るというよりも、“作り込まれたもの”と現実を切り取ったような“リアルなこと”という二つの要素を混在させ、最後には観客の想像力で両者を架橋し作品を完成させるとでもいうようなスタンスである。それは『room』や『Impro.<インプロ>』においては、作品作りの舞台裏(上映装置であったり、撮影の準備風景であったり)を作品に組み込むことであったのだが、 2015年の『10年後の24歳へ』においては、その虚実の取り扱い方が複雑になってくる。作品の内容である若者に対するインタビューと、少し手を加えられた郊外の風景には直接的な関係はないように思われるのだが、たまにインタビューが嘘で、加工された風景が現実のようにも見えてくる。作品のそれぞれの部分に対して「これは何」というように評定しづらい曖昧模糊とした世界であるがゆえに有機的な全体性を保ってもいるという不思議な作品であった。


 そして今回の『しょう利はわがてに』という新作は、我々の実家や祖父母の家に行くと目にするような“トルフィーの置かれた風景”を多方向から撮影し、3Dプリンタ用のソフト内に再構成してできたハリボテのような“トロフィーのある空間”の立体再現物をカメラが縦横無尽に行き来するというものである。私が作品を見た時の第一印象は、ある種の物足りなさであった。それはやはりハリボテの立体物の作り込みの足りなさによるものが大きいとは思う。作者である彼らもその点は了承していて、去年の上映会後の集まりにおいて、より詳しいデータの提供(自分たちでは撮影せず、他の人に撮影データを提出してもらうというスタイルなので)ができる人を募っていた。だからこの作品にはこれから作られる“改訂版”や“Part2”が存在するのかもしれない。だが私は同時に、ある種の物足りなさを感じながらもこの作品が抱える“明確な批評軸の不在“とでもいうものを面白いと思った。この感覚は彼らの2015年の作品『10年後の24歳へ』にも漠然と感じていたことであるからだ。“明確な批評軸の不在”というと小難しい表現になってしまうが、要するに多くの人間が作品を判定できる要素である“現実世界との対比”や“思想やイデオロギーからの参照”として作品を成立させるのではなく、このような世界を“楽しめるか楽しめないか”といういわば“ノリの部分”で作り上げてしまうということなのだと思う。これはお笑いや、ある種のブラックジョークに対する好みなどと同じように、評価する人を選ぶとても趣味的な作品であると言うことができるだろう。


 まずはこの『しょう利はわがてに』という作品は、その漢字変換の失敗風のタイトルからも明らかなように皆がニヤッと笑うような、少しずれたところに共感を求めるというような作者の姿勢を感じることができる。それは後生大事に飾ってあるトロフィーが醸し出す空間の居心地の悪さにそもそもの“おかしさ”の発生源がある。だがそのトロフィーを含めた空間にどのような“まなざし”を向け、どうやって映像作品として造形するのかが問題となってくる。とりもなおさずこの時のまなざしこそが、作品が批評的であるか趣味的であるかを分けるからだ。おそらくはそのトロフィーが置かれた空間のリアルな提示、ここで言う映像表現的なまなざしへと変質してゆく前の姿(例えば写真でカシャッと撮っただけのショット)を提示してから3D空間に移行するというのが批評性を持つ一つの方法だと思う。だがそうではなく既に3Dプリンタに読み込まれた今のような始まり方をするのであれば、やはり3D空間の立体物の完成度を上げなくてはならないだろう。そして3D空間で再構成されることでオリジナルなトルフィー空間の何かが“誇張”されること。そのことが今のように趣味的な作品でありながら批評性を失わない方法なのだろうと思う。


 しかし『しょう利はわがてに』において、3Dプリンタに読み込まれたトロフィー空間が、とても不完全で未完成であることも、完全に制御できるデジタル環境に対する“不作為”を表すものであるとしたら、ここにはある種の批評性を持つことはできるだろう。ただそうであるならばこのような表現は、例えば国会議事堂であるとかホワイトハウスだとか既に威厳を放っている建造物などを対象にするべきだろう。だが西崎や岡村はそのような政治批評には興味がないと思われる。二人は例えば、いま我々が使っているSNS環境における“いいね!ボタン”が担っているような趣味的な判断の境目が新たな“批評軸”として機能するように、我々の身の回りという小さな世界でのみ流通する言葉のようなものを映像作品において獲得しようとしているのではないだろうか。それは彼らの作品である『room』、や『Impro.<インプロ>』が持っていた“万国共通”の言語とは明らかに方向性が違っている。しかし私は彼らがあえて評価もされてきたそのような作品から離れて、新しい実験を始めているのであるならば、その方が彼らのオリジナルな作品作りには近いのではないだろうかと思う。重要なのはそのような“小さな言葉”がささやかれる環境や空間がどのようなものなのかの調査であるといえよう。それは今回の作品で言うならば、庭先に飾られたトロフィーにはどのような言葉が当てはまるだろうかということを検証してゆく作業になるだろう。私はそのように考えた時に、二人の作品空間にはある種の“郊外”や“世代”といったキーワードが思い浮かぶのであるがどうだろうか。



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