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作品レビュー「・」執筆:内藤慈

  • tokyoeizobrig
  • 2016年2月29日
  • 読了時間: 4分

natsuko kashiwada

鑑賞作品:「・」岡村知美

執筆者:内藤慈


いわゆるビデオアートの多くが、観る者に退屈な印象を与えてしまう理由のひとつとして、作り手が「表現したい何か」を追及した結果、一般的な映画・テレビ的価値(たとえば胸躍るような物語だったり、感情移入できるキャラクターだったり、可愛い女の子の表情)から要請される観客への「サービス」が、まるまる削ぎ落とされてしまう面があるように思われる(その前段階として「表現したい何か」にあまり重要性を感じられなかったり、「表現したい何か」へのアプローチに疑問符がつくことも多いが)。


そんな中、岡村知美の『 ・ 』は、作者の「表現したい何か」がそのまま観る者への「サービス」として機能し、「サービス」が「表現したい何か」として成立している稀有な映像作品といえるだろう。


ビデオ=電子映像は突き詰めてしまえば、たしかに明滅する画素のあつまりに過ぎない。


映像は光の「 ・ 」なのだ。


そのシンプルで力強いテーゼが、この作品に表現としての一貫性と説得力を与えている。


街の灯りが生み出す「 ・ 」と、テストトーンを思わせる電子音のシンクロが徐々に水のゆらめき、雪のきらめき、闇に揺れる炎のかがやき……フォルムの判然としない光のバリエーションとして変奏されていく。

詩的なビデオアートに触れたことがある人間にとって、それらはとても見慣れた光景だ。

しかしながら劇伴音楽の効果とメタモルフォーゼされる光の作用によって、本作はそこからさらに一段高いレベルへと昇華させられている。


劇伴音楽は導入部こそ音響派を思わせるサイン波が奏でられるが、全体としては印象的なピアノの旋律であり、そのリフレインであり、はっきりとした輪郭を与えられているものだ。

ビデオアートにおけるサウンドトラックは往々にして加工された音の響きや状況音、ノイズによる不協和などが採用されがちなわけだが、ここでの明瞭なメロディは曖昧なイメージを纏う光のビジュアルと好対照を成しており、音と画を互いに引き立てあっている。

メタモルフォーゼは時間芸術である映像においてもっとも根源的な魅力のひとつだろう。

ある画から別の画に徐々に形態を変えていき、さらにまた変化を繰り返す「動き」の力は、基本的にアニメーションにおけるイリュージョンだが、作中その魔術はカメラにうつしとられた光そのものに施されており、重大な映像の神秘を匂い立たせる。

ただしモーフィングのようなテクノロジーが前景化したものはあまり目立たないことに留意したい。

多用されるのは像のボケ、画面いっぱいの光や暗闇の利用といった比較的クラシカルなカットのつなぎ方であり、その積み重ねはモチーフをより鮮明に浮き上がらせることに寄与している。

反対にショット内では撮影時のフォーカス送りや編集上でのぼかし効果といった「作為」がことのほか目をひく。

トランジションにおける適用でない分、それはとても恣意的なものを主張していて、あたかもカメラや編集システムを介した作者の息遣いのようでもあり、ともすれば肉感的でさえあるが、そういった映像の呼吸の中で、「ぼかした被写体の正体をはっきりと開示している」という事実はとりわけ重要なことのように思う。

映像詩におけるひとつのスタイルとして被写体がなんなのかあえて明確にしない撮影法や編集術も珍しくないわけだが、超現実的なイメージを得るには有効なメソッドであると同時に、良くも悪くも観客の意識は宙吊りにされることになる。

勿論そのようなやり方が効果的なケースもあるが、視線の欲望にきちんと応えてみせる作者の誠実な態度は、ビデオアートにおける敷居の高さを取り払い、観る側の素直な視聴を促しているのではないだろうか。


筆者は表現における苦痛をともなった鑑賞体験を一概に否定しない。

しかしながら芸術的価値の達成を目的とした映像のより広く深い理解を求めた時、その本質にコミットしながら観る者に解=快を与える行為は、作り手の「表現したい何か」と同等かそれ以上に大切な「何か」を含んでいるように感じる。

『 ・ 』は、「現代においてビデオアートがどのような形で可能であるのか」少なからずヒントが隠されている作品であり、その思索に耐えうる力強さを持った作品である。



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