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作品レビュー「未来の考古学 File NO.001」執筆:波多野哲朗

  • 2015年10月30日
  • 読了時間: 5分

更新日:2025年11月7日


natsuko kashiwada

執筆者:波多野哲朗


『未来の考古学』は、3つのショットから成る映画である。1つのショットは長く、じっと動かぬカメラが彼方の対象を延々と眺めつづける。奥野邦利のカメラと対象との間には、いつもはるかなる距離が横たわっている。


 最初のショットは、光輝く夜の遊園地を、遠く隔たった園外の暗闇の中から眺め続ける。ただそれはあくまで眺めであって、凝視ではない。凝視はきっとそうすることで対象とみずからとの距離を測定し、やがては対象と主体との関わりを露呈する。しかしここでの眺めは、その間の隔たりを放置し、いささかもその意味を明らかにすることはない。とは言え、ここでの眺めは必ずしも注意散漫ではないかに見える。光輝く遊園地の中でもひときわ私たちの注意を惹くのは、煌めくタワーの存在である。その下にはおそらく回転木馬か、それとも吊るされたゴンドラがあるのだろうか。おそらくそこには賑わいの中心があるのだろう。しかしこれらはあくまで観る側の想像であって、無言の、いや無音の映像は何も語ってはいない。タワーの下部に向かおうとする視線は完全に遮られていて何も見えず、ただテントなどの遮蔽物の間から行き交う人びとの姿が垣間見えるだけである。一方、遊園地の手前の空き地らしき暗闇にも、親子連れや二人連れらしき人影が三々五々と通り過ぎるが、それらは遊園地から溢れ出る光によって、いずれもシルエットとしてしか、その姿を見ることができない。ましてやカメラのすぐ前を通り過ぎる人影は、視線を遮る大きな影でしかない。それでもときにはシルエットの人物たちが手にするペットボトルが光を透過させたり、あるいはケミカル・ライトが弱い光を発したりして、彼方の遊園地の光をこちらに向けて拡散させることもあるのだが、ついに対象とカメラとの間に横たわる遥かな隔たりを埋めることはない。この遥かなる隔たり、それは空間的な隔たりであるばかりでなく、時間的な隔たりでもあるようだ。


 第2のショットは、激しく吹き上がる火花である。それは打ち上げられる花火の一瞬を捉えたものであろうか。しかし、やがて夜空に美しく開花するであろう花火のドラマなどは見えず、ここではただ激しく吹き上がる光の運動が繰り返されるだけである。その果てしない反復。しかし何ひとつとして同じ軌跡を辿ることのない反復が、しばし私たちの眼を奪う。そこには永遠の瞬間が顔を覗かせることがあるからだ。


 第3のショットはじまりは、黒い画面の中央に平行に並んで微かな光を放つ2つの点である。その微かな光が明滅しはじめ、やがてその1つが消え、間もなく残る1つも消えてしまうと、画面は一面の闇となって何も見えない。ただこの一面の闇が、黒い画面ではなくて、持続する暗闇の時間であるとの私たちが理解するのは、さきの2つの光の明滅と消失があったからだろう。暗闇は次第に明るさを増し、やがて画面の中央を横断する線によって明るさが二分されると、それが海と空との境界であることがわかる。そしてこの水平線こそが、さきに微かな光を明滅させていた2つの点を結ぶ線であったことが明らかになる。してみるとあの明滅する光の点は、波間にゆれる小舟の漁火であったのか。そしてさらに明るくなると、海面に起伏が見えはじめ、それがこちらに向けて打ち寄せる波であることがわかる。どうやらカメラは、波打ち際にほど近い陸地に据えられていたのだ。だがカメラは波打ち際はおろか、迫りくるうねりさえもはっきりとは写し出していない。なぜならカメラの焦点は相変わらず遥か彼方の水平線に向けられたままだったからである。ここにはまたしてもあの隔たり、埋められることのない対象とカメラとの間の遥かなる隔たりが横たわっているのである。


 これら3つのショットはいずれも、いかなる人為的作為も施されることなく、無限大に焦点を据えたまま放置されたカメラが写し出した映像であった。だからそれらの映像には、カメラの眼差しの所有者たる主体は存在しない。その眼差しが凝視ではなく、眺めであるとさきに述べたのも、その意味においてであった。それらは確固たる主体を欠いたカメラによって写し撮られた映像、純粋に光学的プロセスによって生み出された脱中心的な映像なのである。


 しかし言うまでもなく、この映画そのものに作為がないわけではない。それどころかこの映画は、作者の用意周到な企みのもとに作られている。そこでは「無作為の映像」もまた、作為的な戦略の一つであり、選ばれた方法であろう。奥野の映画は、これまでも遠くの対象を写し出してきた。そこには得も言われぬ美しい山々もあった。そしてそれらの対象へと向かう視線は、しばしば雲や霞や雨あるいは暗さによって遮られていた。もともとこの作者は、対象へと向かう強い眼差しによって、かえってみずからの主体が露呈してしまうことを用心深く回避してきたのだった。しかしそれでもなお眼差しが眼差しである限り、完全に主体を消し去ることはできない。これは必ずしも作者のせいではない。なぜなら作者主体の顕現こそは、私たちが生きてきた近代を支配する大がかりな眼差しのイデオロギーであるからだ。だからそこから逸脱することは、むろん容易ではない。しかし映画『未来の考古学』は、いまその危険な第一歩を踏み出しているのではないだろうか。無限大を見つめたまま見開かれている眼とは、死者の眼差しでもあるからだ。


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