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作品レビュー「未来の考古学 File NO.003」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 3分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 この『未来の考古学』シリーズを始めるにあたって奥野は「ある種のオープンソース的な試み」で作品を作り始めたと述べている(上映会場での奥野の発言)が、このことはおそらくこのシリーズを成立させる“フェアネス(公平さ)”について触れた部分だと私は思っていた。だが今回の『未来の考古学File NO.003』においては、前2作と同じ心持ちで観ようとすると、なぜか心がざわつく感じがする。


 その理由は明らかだ。1カット5分×3カットという形式は踏襲しながらも、今までは観る人間が比較的自由に画面の中で視線を行き来できていたのに、今回は何者かの“任意の視線”が紛れ込んでいるように思われるからである。違う言葉で言えば、画面内に気になるものが写っていて、だから結果的にそこに視線や意識が誘導されてしまうということなのだ。1カット目の観覧車では窓に張り付いた水滴、2カット目の水族館では水槽の手前を泳ぐ魚と奥にある光とのオートフォーカスゆえのピントの揺らぎ、3カット目は手持ちのカメラをスローにしたためかカクカクとしたコマが飛ぶような動き。このようにそれらのカットを観る多くの人間が心を留めてしまうものを放置してしまっているわけで、このようなことは今までなかった。“みんなの視線に対して平等であること“これが“『未来の考古学』的世界”での良心であったはずなのだ。


 この『未来の考古学』シリーズとは奥野が考えた新しい“時制”であると言うことができる。それは今という唯一のものを多様なる眼差しから眺められるということを前提として成立していた。奥野はこの“File NO.003”の作者でありながら手を加えないという超越的な関係を作品と結ぶのではなく、その多様なる視点の“1”として参加することを選んだのかもしれない。その選択にはおそらく自分が選んだ“未来の考古学”というフロンティアが肥沃な土地であることの確証があるように思う。


 また奥野がこの『未来の考古学』シリーズを構造的にオープンソース的な皆が関わるようなプロジェクトにせず、特定の誰かが“語り始める”という方向に舵を切ったのは彼の(思想家や社会運動家、コンセプト重視の現代美術家としてではなく)個人映像作家としての資質がそうさせたのではないかと私は思っている。


 奥野はそのように自分が夢見た未来の考古学的世界の地図作りから始めるために、ただ歩くことから始めるだろう。その新しい土地でどのような距離でモノを見つめ、何に関わり何には関わらないほうがいいというようなルールを決めるだろう。しかしそのように“見えざる分析者”を作品に紛れ込ませながらも、引き続き皆の想像力に対して平等に開かれた“未来の考古学”を続けていけるのだろうか。そこでは特定の“話者”や“視線”は存在するのか、3カット間の関係性やバランスをどのように配分したらいいのか、今を眺める“未来”の時制をある程度設定したほうがいいのか、あるいは漠然とした“未来”でいいのか、未来の考古学の研究対象には人の悲しみや希望などの感情も含まれるのかなど様々な検証事項がこれからもあるように思われるが、それらのことを超えたレベルで『未来の考古学』シリーズを成立させるために、奥野はただ歩き続ける以外には無いということは明らかであるように思われる。

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