作品レビュー「そして美しく」執筆:川越良昭
- tokyoeizobrig
- 2018年1月30日
- 読了時間: 5分

鑑賞作品:「そして美しく」奥野邦利
執筆者:川越良昭
超スローモーションを作品に導入する近年の奥野作品では、我々が“見て知る”ことを超えて同じ時間が続いてゆく。そこでは普段私たちの“見る、やがて理解する”という条件反射的な運動を“見る、やがて理解する、見る、また少し分かったことが増える、(相変わらず)見る、見る、見る”というような見ることだけの反復運動に変えてゆく。
そこでは何度も、その引き伸ばされた時間を見るたびに新たに知ることはなくなり“見る”ことが“視つめる”ことへと深化し、そのほんの少しの時間の進みの中に観客自らが新たなイメージを(いわば勝手に)挿入するようになる。やがて観客それぞれがその超スローモーション映像の間に独自に挿入したイメージが奥野の作品を乗っ取ってゆく。このように奥野作品が持つ“長い時間”の間には、観客それぞれの“時間の私有化”が起こると思う。それがおそらく奥野作品を“主体的”に観たことの結果でもあるのだろう。
奥野の作品が上に述べたような自由運動を観客それぞれに催させるのだとして、一方で奥野作品のタイトルは具体的な言葉を採用している。2014年からの『未来の考古学』File NO.001~003、2015年『覚めぬ夢、あるいは死についての考察』、今回2016年の『そして美しく』。“未来の考古学”は言葉の組み合わせが少し変わっていて、言葉が言葉を打ち消しているような複雑な働きを持つが、後の2作品は何についての作品かがタイトルに明示されている。前置きが長くなって恐縮だが、以上のことを考えると、(このように近年の超スローを使った)奥野の作品を観るということは、奥野が作品にあらかじめ織り込んだ(恐らく具体的な)イメージと観客がその美的なレベルにまで引き伸ばされた時間の中に見出すイメージとを同時に観る行為なのではないかと私は思う。そこには当然のように少なくはない“誤差”、あえて言えば作者と観客が観ているものの“距離”が生じるだろう。そしてさらにそのような誤解が生じやすい、よそよそしい距離感がある中に奥野はあえて自らの幼少期の映像や家族写真などを挿入する。これはどういうことだろうか。
今まで奥野作品を何作品か観てきた人たちは、常に作者である奥野自身(そして奥野にまつわる個人的な映像)が作品に出てくるということ(そして多くの場合、奥野はただ出てくるだけで何もしないか、見つめ返すか、歩いてくるだけかという登場のしかた)を不思議に思うだろう。あるいは個人映像と呼ばれるようなジャンルの作品において、自分を登場させるということにある種の古臭さを感じるかもしれない。だが私はむしろ奥野作品における奥野の登場のあり方は、今までの個人映像と呼ばれるジャンルにありがちな自身の記録のされかたとは違う働きをしていないだろうかと思っている。例えば奥野は彼が作る映像作品に自身が登場することによって、現実の私という生々しく信用ならない在り方の“規範”のようなものを一度打ち消して、まるで作品の中で新しい意味の交換をおこなうために“私”の存在が必要不可欠なある種の“象徴”であるかのように考えているのではないだろうか。もしそうであるとしたら、奥野作品における自身像は何かの価値を反転させるための“具体的な機能”を持っているとも言えるだろう。
『そして美しく』では線香花火の白黒映像が超スローモーションで爆(は)ぜる様子が最初は続く、次第にその映像が逆スローモーションになると家族写真を含む、物や場所の静止画がインサートされ、最後のパートは今までの線香花火の正逆再生の映像が二重露光される。つまり我々はまたゆっくり爆ぜる線香花火と、爆ぜ消えてから逆にその火花が生まれる瞬間へと逆光する線香花火を同時に見ることになる。これは構成としてはシンプルな(いや、シンプルすぎる)展開だということができる。そしてその第三部とでもいうべき線香花火が生逆再生するパートからは次第に換気扇のようなノイズと、まだ話すのが拙いような子供の声が小さく流れてくる。その音声が伝えるのは“何年何月何日のどこで”というような、実際に奥野の体験に繋がった過去の“ある一点”だ。ここでも奥野はとても具体的で個人的な“家族との時間”というものを作品に提出している。そして、この作品に差し出された奥野の2010年という時間(Short pictures were taken by my family in the United States in 2010. And the last video footage was a view from my room in New Jersey.“シノプシスより引用”)は『そして美しく』という作品の中で、超スローモーションの線香花火のように、逆再生されたり二重写しにされたりしながら意味変換されて(映像作品という)抽象的な時間軸に格納されてゆく。この時、通常は(ここでは奥野の2010年という)個人的な記録が、映像作品が語っている内容に従っていわば抽象化、物語化される。そしてこの物語は誰のものでもなく、映像作品の解釈によってその意味合いを変えるような曖昧なものである。だがこの『そして美しく』という作品は先ほども触れたように、そのシンプルすぎる構成によって積極的な意味は語らず、その超スローモーションの映像は、それを見続けた観客によってすでに“私物化”されている。この時何が起こるかというと、観客はこの『そして美しく』という映像作品に(その超スローの線香花火に) 物語の読解とは違う“具体的な美しさ”を見るのではないだろうかということである。その具体的な美しさを観客にも所有させるために、奥野はあえてシンプルな運動を持つのみの構成にし、自身の具体的な記録を作品に混入させているのではないだろうか。
多くの観客は、映像を“作品”だと思って観ている。そこでは例えば映像を観て具体的に傷ついたり、血が流れたりはしない。そのような場で奥野は映像であることを私たちそれぞれに具体的に深く所有させるような仕掛けを作っている。


