top of page

作品レビュー「星淵のほとり」執筆:川越良昭

  • 2018年1月29日
  • 読了時間: 5分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 旅団の上映会は初参加になるが、私がこの二人の共作を観たのはこの作品で3作品目だと思う。


 おもに演出を担当する白鳥と、(フィルムにこだわった)撮影を担当する大島はあらかじめ決まったストーリーを作り込むというのではなく、それぞれの欲動(白鳥は語ること、大島は写すこと)から物語を紡いでいるように思われる。決まった設計図を持たず自分たちが一番強く動かされる対象へと貪欲に進んでいき、結果的に物語が思いもしなかった方向へと触手を伸ばすそのプロセスにこそ彼らの作品が持つリアルな声がある。


 だが、この『星淵のほとり』で二人はそのような作者としての実像から背伸びをするように、作品に幾重にもフィクションのフィルターをかける。まずは虚構(「宇宙疎開から70年・・・」)、時間の隔たり(作品は、宇宙疎開して87歳になったカリナスエツグが疎開前26歳の時に、母が育った故郷へと旅をした時の話である)、そして異国情緒(写されているのは紛れもない日本の農村なのだが、上海を起点にして場所が説明されたり、混血の俳優が配されていたり、モンゴルのゲル風住居が出てきたりする)。ここにはおそらく監督である白鳥の物語構築に対する欲求の高さが感じられる。そして同時に“フィクション”としての作品構造を持ちつつ、それをあたかもドキュメンタリーのように記録するという挑戦を撮影の大島が担っているというところに二人の意欲がうかがえる作品でもある。しかし、『星淵のほとり』をこのように書いてしまうと、“フィクション”と“リアル”の表現的な棲みわけが作品の中に存在するかのように思われるが実際にはそうではなく、とても混沌とした曖昧な物語として私たちの前に立ち現れてくる。だからこそ逆にこの混沌の原因を究明すると、フィクションとリアルそれぞれに対するこだわりが作品の統一感を壊しているということに気づくと言う方が正しいのだろう。


 もう一度整理すると、作品で語られているのは87歳になるカリナスエツグの60年前の“想い出話”である。ということは、この物語は60年の時間経過を経た記憶が持つ、ある“強化されたイメージ”や“曖昧な記憶による改ざん”を含んだものであり、そのような意味ではどのような細部も“自然”なものではなく、カリナによって何十年も追体験され意味づけられ尽くした“作り物”になるのではないだろうか。だがしかし、この作品ではどれも“村の生活を初めて体験するカリナ”というスタンスで物語が進んで行く。もちろんそのような(語られている時空間から隔たった)作品もたくさんあるだろうが、作品の冒頭にあのような物語の背景説明(文章が出てくる部分)を行うということは、時も空間も隔たった場所からの“まなざし”を観客に意識させながらこの物語のいわば“意味づけ”を行うことを暗に求めている。それは例えばある家族の幸せな日々を描いてはいても、それが1938年のことだと分かると“第二次世界大戦前夜”というまなざしから物語が読まれることを期待されているように。同じくこの『星淵のほとり』において、宇宙疎開から70年後の視点から語られるということは、私たちの戦後70年という時間との相関関係があるということだが、この物語を例えば“70年前の私たちの決定(現実の第二次世界大戦後の世界運営と物語の中での宇宙疎開という選択)は正しかったのだろうか?”というような物語として読むことは難しい。そう考えると、これはやはり宇宙疎開が始まってから10年経って地球を離れようとしているカリナスエツグの時制で成立する物語として語られるべきだったのではないだろうか。そうでなく、今のように数十年の時の隔たりをも含み込んだものとして描くには、少なくとも物語の最後は最初の時制、つまり60年後のカリナの時制に戻してやらなくてはならないだろう。今のエンディングでは60年前のカリナの視線(“池のほとりに母の心が凝っていた。私は長い旅に出る”というモノローグ)で終わってしまっている。


 このように考えてゆくと、やはり今回の『星淵のほとり』もフィクション的な“外壁”を造り、物語の普遍性を獲得しようとはしてみたが、実際には二人が作品作りをしてゆく中でリアルに体験し見出したものを作品として成立させているのだと思う。この部分にストーリーテラーとしての(現状の)二人の限界もあるのだろうが、これから“二人の共作の質を高めてゆくこと(こそが大事だと思うのだがどうだろうか)”で、オリジナルな作品が出来上がる可能性は十分にある。今作での特徴的なところで言うと“ちせ”という4歳の少女の出演シーンがあげられるだろう。このちせのシーンは、白鳥の演出、大島のカメラ、ちせの存在感が相まった幸せなシーンであると言うことができる。このシーンでは“ちせ”に導かれて(白鳥、大島が実際現場で体験をして)作り上げられた二人の理想的な形である。またそれ以外にも、暗部を多く含んだ風景を捉える大島のカメラには見るべきものがあるし、やや情報過多にも思える白鳥の物語にもこれから最適な整理方法は見つかるはずである。二人が共作をする過程で今まで“感じあって”分かっていた感受性の部分を、どうやって“話しあって”創作的に進んでいけるかによって、これからの作品の成熟度が決まってゆくであろう。


bottom of page