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作品レビュー「まじょスープ」執筆:川越良昭

  • 2015年9月19日
  • 読了時間: 3分

更新日:2025年11月7日


natsuko kashiwada

私の物語を混ぜる子等

執筆者:川越良昭


 このスープを飲んだら、あなたは賢く美しくなるかもしれない。でもお腹を壊すかもしれないよ。


 母の物語に近づくために娘がカメラを向ける。無邪気に?いや、したたかに。なぜ娘は母に「可愛い」と言うのだろう。言葉や態度が“お子様用に”やさしくなるからだろうか。それとも無邪気な子供以上に天真爛漫なそぶりを見せるからなのか。 いや、違う。それはお互いに何かを偽っているからだと私は思う。本来的には俗っぽく、不寛容で無理解な者が私のために特別な対面を用意して、微笑んでくれる、そのことへの小さな賞賛として、ここでの「可愛い」という言葉があるように思う。「可愛い」は さらなる愛情を強請(ねだ)る魔法の言葉であることを子供たちは知っている。「ふわふわのぬいぐるみのように、いつでもニコニコでいてね」という予防線、あるいは共同戦線。カメラを持つことで視線を獲得した娘は、私から切り離される 母という他者を知るだろう。ほどなく母娘はお互いを登場人物に見たてた童話語りへと私たちを誘う。


 思えば、渡井登紀子のカメラが何かを克明に描写することはかつてなかった。それは常に“見えてしまったものへフィルターを掛ける行為”であったように思う。たとえば娘が母にちらっと視てしまった“生々しい”息づかいを何か別のモノへと変換するために渡井登紀子はカメラを覗く。この少女趣味的な禁忌。日常から距離をとるフィクショナルなベクトルと、彼女の眼差しが宿命的に捉えてしまう一瞬のリアルな生々しさ。この相克が渡井登紀子の作品世界を形づくっているように思う。心が通い合った者同士が共有し察知する特別な周波数を渡井登紀子は検知し、より大きな寓話的うねりへと変換してゆく。渡井登紀子の作品はこのように、寓話空間と日常とがしっかりと地続きであることを我々に知らせる、鶏のように正確に。だが、あるときから渡井登紀子はそのような自身の物語をすんなりと子供等に託すようになった。あんな濃密な物語を放棄するように。さらには自分の紡いできた物語を分割し分かりやすく咀嚼さえして、子供等に分け与え、彼らの眼差しに己を晒すことでどのように自分の物語が変質するのか。そのような興味に渡井登紀子の創作はシフトしていったように思う。白くモクモクと沸き上がるスープの中身は分からない、だが一番嬉々として先導しているのは渡井登紀子自身ではないだろうか。そしてきっと彼女はそのような自分の姿を見てみたかったに違いない。擬似的にであれ、彼女の視線を共有してしまった者たちは、みな共犯者なのだ。そのようにして僕らは彼女の作品を観て知ってしまったことを、こっそり掘った深い穴へと向かって叫びたい衝動に駆られる。「お母さんの笑顔って、ものすご~く怖い!」とか。穴に向かって言い放つ。だって視て気づいてしまったのだから。このようにして1人の魔女から、3人のウィッチーズ(Witches)が生まれた。彼女たちの混ぜるスープを飲まされるのは、もちろん観客である私たちである。


  最後に言い忘れたが母にカメラを渡した後の、娘の響子ちゃんの踊りが素晴らしい。その踊りを最後まで見せないところが、意地悪なのもイイ。



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