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作品レビュー「こわい夢見ない?こわいこと起きない?」執筆:川越良昭

  • tokyoeizobrig
  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 4分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 日常的な何でもない光景を渡井は自分の磁場に引き寄せて“物語”にしてしまう。その手腕はシェヘラザードそのものだ。それも彼女は具体的なストーリーを語るのではなく、とりとめのない不安や焦り、恐怖心、あるいは心地よさなどについての語り手となる。おのずからその作品世界は靄がかかったように混沌としていて、私たちは彼女と一緒にそのようなつかみどころのない不安な世界で鋭利な感覚を磨くことしかできない。


 渡井の作品世界に招き入れてもらうのには“資格”がいると私は思う。ただ観るだけでは彼女が語る表面的な“お話”に付き合わされているにすぎない。だがそのお話以外のところに、渡井の狂気にも似た本当の“感覚”が眠っている。その感覚は渡井作品のすべての見え方を一瞬で変えてしまう力を持っているのだが、それを見つけられる人はわずかしかいない。もしかしたら作者本人にも分からないものの“気配”を、たった一人の観客が見つけてしまうかもしれない。そのように、やはり渡井作品は(結果的に)人を選んで作られていると私は思っている。


 だが旅団の参加作家として作品を作り始めてから渡井は自分の子供達を被写体に選んだ。それからは渡井の作品に潜んでいた“不安”な気配はなくなり、彼女は子供でも理解できるような“お伽話”の世界を構築してゆく。そして(ここからは予想外なことなのだが)かつて渡井の作品に確かに存在していた、私たちに“悪さ”をしそうなモノ、不安や緊張を強いるモノの気配が、子供達の“無邪気さ”や、理屈でなく感覚的に未分化だからこそアンビバレント(両義的)なものを同時に抱えられるというような“度量の大きさ”、そして何よりもそのフォトジェニックな佇まいによって見事に中和(浄化)されていく過程を私たちは目撃することになる。そうやって二人の子供を味方につけた渡井はお伽話の舞台監督として、ただ話のとば口を見つけるだけでいい。あとは優秀な役者が舞台を受け持ってくれる。そんな作品が何年か続いたように思う。


 そして2016年の『こわい夢見ない?こわいこと起きない?』では、今までの主演女優であった娘が成長し被写体となることを嫌がるようになってセミリタイアし(旅団にはそのようにして母親のカメラの被写体となっていた経験を持つ池端規恵子がおり、年に何回かある会合で池端規恵子と渡井登紀子の娘が「母親の被写体になるのってどんな感じ?」とか話しているのが面白い)、息子へと主人公がシフトしていった作品であると言うことができる。


 タイトルの『こわい夢見ない?こわいこと起きない?』とは毎晩寝る前にその息子が母親である渡井に問う言葉である。その言葉に導かれて作品は息子が見る(あるいは夢で見る)風景のようにして始まってゆく。だが作品には同時に車窓を眺める息子が客観的に登場し、まだ生まれて間もない息子が座らない首を持たれて湯に浸かっている映像や、やっと喋れるような頃の娘がカメラの蓋を開ける様子などがランダムに登場する。このように物語は常に息子の視点で語られるのではなく、作品は渡井を中心とした家族の短いながらもクロニクル(年代記)風の作品になっている。


 先にも書いたように、渡井はかつて持っていた人を怖がらせるような“魔力”を母としての営みの中で中和してしまったのだろうか。それは『こわい夢見ない?こわいこと起きない?』の中に出てくる大量にぶら下げられた鯉のぼりの影を捉えたカットの使い方にも感じるのであるが、渡井という作家はこのようなよくよく見ればゾッとするようなカットを巧みに使って、私事化しその感覚を観客に届けるようなテクニックを持っていた。だがこの作品での使い方はどうだろうか。かつての渡井の手口を知っている私にはこのカットの扱い方に困っているようにしか見えない。やはり彼女はいたずらに人を怖がらせ、お話に誘い込むようなことに興味がなくなったのではないだろうか。


 『こわい夢見ない?こわいこと起きない?』での息子は当然ながら姉とは資質も佇まいも異なっている。娘は理解力のある演技派で、時折その才覚が母親と衝突したが、作品の中でトロッコのようなものに乗り横顔を見せる息子は全く違う現れかたをしている。おそらく渡井は娘の時と同じように、お話の概要に沿って息子が役者として話を広げてくれることを望んでいたのかもしれないが、どうやら彼の資質はそこには無いようだ。息子には役者としての理解力と身軽さよりも、得体の知れないものにこだわり続け(「こわい夢見ない?こわいこと起きない?」)その混沌とした“パワー”を溜めるような素質があるように私は思う。これはお話を作る者としては重要な要素である。おそらく渡井は息子と(いや息子は渡井と)持っている資質が似通っており、それゆえに二人は“共作”するような関係を結べるはずなのだ。その共有できる資質は親子として深めつつも、母と息子そして男性と女性として違っているために、新しく生まれるものの面白さが今後の渡井作品の見どころになっていくように私は勝手に想像するのだが果たしてどうだろうか。


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