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作品レビュー「over there.」執筆:川越良昭

  • 2018年1月30日
  • 読了時間: 3分

natsuko kashiwada

執筆者:川越良昭


 柏田はまるでカメラで世界をフレーミングしたような絵を描く。どうしてそんなことができるのかは分からない。それは“何か”を描くのではなく、まるで世界の一部にレンズを向けて記録しているかのようである。だから彼女が描く絵には不透明な空気の層が存在し、距離が生まれ、実際に私がそこに立ってこの風景を見ているという気を起こさせるものがある。このような“一部”を描けるということは、おそらく柏田の作品にはたくさんの“話の続き”があるのだろう。


 だから彼女の作品は“モテる”し、観る人に中毒性をもたらす。観客の想像力に訴えるような作品は数多く存在するが、柏田の作品は(少なくとも私に)あるリアルで個人的な感覚を呼び起こす。それは永遠にも感じられる静寂な時間だったり、肌に触れる冷気だったり、情景が呼び起こすもの哀しさだったり、まばたきほどの一瞬の出来事をハッキリ見てしまった時の驚きだったり。だが反面、柏田の作品ほど孤独なものはない。そのまなざしを私はハッキリと所有できるものの、そこから何の主体的な感情も読み取ることはできない。このように、描かれた世界の細部は手に取れるほど具体的なのに、そこから価値を見出したり、物語が始まったりというような“視点”や“話者”を私たちは見つけることができない。だから、いつも受動的に映像作品を観ている人は柏田の作品を理解するのは難しいだろう(必要なのは“理解”ではないから)。そこにはただ何かの“在り方”があって(だから最初に挙げたフレーミングに対するこだわりがあるのだろう)、私たちはそのような在り方を好ましいとと感じ、観客一人一人が自分の世界の一部として所有した時に初めてリアルに立ち上がる、そういうような世界。そうやって柏田の作品は私たちが“ささやかに愛玩”するためにある。おそらく作者である彼女が日常に対して一番そうしているように。


 愛玩はそれがどのような形であれ対象に対する“深さ”に関係がある。だが時間という概念に支配されている映像表現は一般的にこの深さと相性が悪い。深さを追求すると映像作品からは時間の流れが消え、動きが消えてぎこちのないものになってしまう。初期の柏田作品にはまだ作品の中に時間の流れがあったように思う。それは私たちが日常的に感じる時間と同じような物語が作品にあったということだろう。しかし柏田作品は2013年の『I must be somewhere about.』から段々と時間の流れが失われてゆくと同時に次第に絵が動かなくなってゆく(『I must be somewhere about.』は飛び飛びの日記形式であるし、2015年の『作品サンプラー』はサンプルであるためか各カットの必要継続時間に対する意識が薄いように私には思われ、2016年の『over there.』は3カットで成立していて、それぞれの時空間にあまり関係性は無いように思う)。


 果たして柏田がこれからもアニメーション作品を作ってゆくのかは分からないが、創作面では以上の(映像作品が持つ時間表現とあたかも本当に在るものを覗いたように描くという柏田の絵がもつ深さとの対立という)難題を抱えているように思われる。“ほとんど動かないアニメーション”にさらなる成熟はあるのだろうか。例えばそれはアニメーション表現でなくてもいいのではないだろうか。「いやいや、これはアニメーションでなくては表現できないでしょ」とひとかけらでも彼女が思うのであれば、多分私たちは柏田の新作をまた鑑賞することが出来るだろう。ただ、それが1年先か10年先かは分からないのだが・・・。


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